今月の言葉 > 「標語解説書」から > 平成15年版17日
相手が悪いと思える時が
反省の機会の訪れである
人間は、様々な経験を糧にして成長していく存在です。仕事においてあるいは人間関係において、円滑に事を運び、実りをもたらし、そして楽しく過ごすコツを掴んでいる人がいますが、そのように豊かな人柄を身に付けた人と接すると、人間の素晴らしさに改めて感動し、人生とは意義深いものだと実感します。
しかし、ただ年数を重ねれば人間性を豊かにできるというものではありません。成長していくためには、自分の足らざる点を知り、改めていくという心の作業が不可欠です。反省というこの人間ならではの作業を怠っていると、いつまでたっても幼さの残る、大人になりきれない状態で一生を過ごしかねません。
反省が大切なことはだれもが知ってはいるのですが、日ごろの生活で実際にそれを駆使している人は少ないようです。
特に人とのかかわりの中で不都合が生じたとき、多くの場合は相手の非を責めてしまいます。それには理由があります。他人の姿ははっきり見えてその欠点も容易に見つけ出せるのですが、自分の姿は自分では見えないために、問題点に気が付きにくいことが第一の理由です。そして、自分のことを悪く思いたくないとかばう気持ちが、一層自分の欠点から目を逸らしてしまうのです。
相手を責めるのが自然の成り行きとは言え、そこからは何の改善も生まれず、ただ対立心が深まるばかりですし、当然のことながら、人間としての成長は何も生まれません。
そのような愚かなことの繰り返しを、自分の決意
で変えていくことができれば、そこから全く新しい人生が始まると言っても過言ではないでしょう。
「相手の方に非がある」と思ったその時に、厳しい眼差しの向きを一八〇度転換して、自分はどうなのかと、振り返ってみましょう。自分にも一〇パーセントの非があったと知り、いや五分五分だと思いを改め、そして、結局改めるべきは自分なのだと、ありのままの事実に気が付くかもしれません。
これは相手に「負け」て屈辱を味わわされたのではなく、反省という人間として尊い心の作業を成し遂げた、喜ぶべき瞬間なのです。