今月の言葉 > 「標語解説書」から > 平成14年版16日
相手が悪いと思っているときは
自分を見る目を失っている
「喧嘩両成敗」といいますが、けんかや言い争いをしている当人たちには、なかなか承伏できる言葉ではないのではないでしょうか。
当人たちは相手がああだから仕方なくやったとか、相手から仕掛けられたから仕方なくやったとか、こちらに非はなく非は相手にあると思って争っているわけです。
しかし「傍目八目」という言葉もあるように、当事者より周りの方が物事のよしあしや利・不利を正確に判断できることもあります。周りから見れば、仕掛けられたと思っている自分にも落ち度はあるのです。
いやむしろ相手が悪いと思っているときは、相手のやったことを取り上げて、その一つひとつから、悪いところばかりあげつらうようなことをしているのではないでしょうか。そんなことで自分を庇っていたのでは、自分の落ち度を自覚することはできず、同じ過ちを繰り返すことになっていきます。
けんかは、利害や意地が対立して譲り合わないところに起こるもので、それぞれが大事にしているものを、自分の方だけは守り通したいという気持ちになっているものです。
相手が大事にしているものを少しでも理解できたら、争いを収束に向かわせられるのに、自分の都合だけ言い立てて譲る気持ちにならないのは、まことに心が狭いことです。
相手が悪いと思っている時は、相手の非を責めることに一生懸命になっているものです。そんなことに一生懸命にならなければ、自分の非に気が付いて
矛を収めることができるのに、その余裕を無くしてしまっています。
相手が悪いという思いは、理性でそう判断しているというよりは、感情的にそう決めつけている場合が多いと思いますが、自分が引くべきところ譲るべきところは、感情に流されていたのでは見つけられません。
感情に流されていると自分を見る目を失うことは、だれでも知っていることですが、私たちは、自分が感情に流されている時には、そういう理性は全く働かせていないのです。
相手が悪いと思えるときは、深呼吸をして、落ち着きを取り戻してから、もう一度見直してみたいものです。