今月の言葉 > 「標語解説書」から > 平成12年版21日
平穏無事であることは 最も
気付きにくい恵みである
自分の身の回りに当たり前にあるもので、失ってみてはじめてその存在の大きさに気づかされる、ということが多いものです。
近年、代替フロンとかオゾンホールという言葉を耳にするようになったのは、地球を取り巻く大気圏のオゾン層が破壊されると、太陽光線中の紫外線が十分吸収されなくなって、地表に強い紫外線が降り注ぎ、人体に悪影響を及ぼすと危惧されているからです。
目にも見えず、日ごろは意識することもないオゾン層が破壊されるという恐怖によって、私たちは初めて、空気の働きや、その存在の大きさや有り難さに気づかされました。
これと同じように、私たちは「昨日と同じように今日を迎えた」ということの中にある、有り難さを感じることはなかなかできません。
何の変化もない、平穏無事である日々。それを、単調で退屈としか感じられないとしたら、その中にある、大自然や社会からの様々な恵みや、周りの人の存在やその働きやなどに、全く心が向いていないと言えます。
あって当たり前どころか、空気のように、「ある」ということすらも、意識されていないのではないでしょうか。
人から親切にしてもらったり、思わぬ所から収入があったりすれば、だれでも有り難いと思うでしょうし、自分は恵まれていると感じるでしょう。しかし、「昨日と同じように今日を過ごすことができた」ということを、「恵み」と感じることができるでしょうか。
自分のことしか見えず、考えられないというような傲慢な心でいたら、平穏無事であるということの中に隠されている恵みを感じることは到底できません。
昨日と同じような今日だったということは、昨日と同じように今日も様々な物に恵まれ、人に恵まれて一日を過ごすことができたということなのです。これは当たり前と言えば当たり前すぎる事かも知れません。しかし、仲間や仕事を失った自分を想像すれば、決して当たり前のことでないことは明らかです。平穏無事と言いますが、平穏のため無事のためどれだけの働きや恵みが結集されているか、失う前、損なわれる前に気付きたいものです。