今月の言葉 > 自然誌 文章から > 令和 6年 7月号 真理の展望

浄心に向けて
橋本のり子


 教祖が「今日集まっている方に人生というものについて話せ」とおっしゃいました。そこで今私が実感していることをお話しいたします。
 人間は生まれてくる時に「前生でここを間違ってましたよ、ここを浄(きよ)めていきなさい」という課題を持って生まれてきます。生きていくためにはお金もいるでしょう。体力もいるでしょう。寿命という時間もあるでしょう。その人がその課題をクリアしていくために必要なものを付けてくださっています。
 ですから一人一人、付けてくださったものが違います。大金持ちの家に生まれてくる人もいます。しかしただお金を使いたいだけ使っていては、何のためにお金を付けてもらったのか意味がありません。人のために使うとか、世の中に必要な事に使うとか


、お金という形で何か役立つ人生を送っていくことで初めて、お金を付けてもらった意義が生きてきます。
 人間には誰にも前生があります。前生でお酒をたくさん飲んでみんなに迷惑をかけて、そして病気になって死んだという人もいます。博(ばく)打(ち)ばかりやって借金をたくさん作って、親に心配をかけて死んだという人もいます。あるいは一生懸命勉強してお医者さんになって、多くの人に喜んでもらいながらも、医者という立場を使って少し悪いことをしたという人もいます。もちろん、そんな目立ったことは何もなくても、前生で知らず知らずのうちに何かしら誤った生き方を積み重ねた人もいます。
 亡くなってからあの世での精進をするのですが、もう一回世の中に出して前生で間違ったものをやり直させてやろう、という神慮でこの世に出てくることができるのです。だからただ今、生きてこの世にいるのです。新しい人生を始める際に、健康とか財産とか知能とか、自分にとってふさわしい何かを付


けて今生に出してくださいます。ですからあまり苦労もしないのに勉強ができる子がいます。生まれながらスポーツが得意な子もいます。誰でも一人一人その人ならではの特長を頂いて生まれてくるのです。
 私は前生で霊的な力を持って人の役に立っていた部分があります。そしてそんな私だったために、前生では周りのみんなが私の言うことをよく聞いてくれました。すると自分の思う通りが結構通るので、どんどん自分の思う通りをしたいという我(わ)が儘(まま)な人間になってしまい、そして亡くなったのです。人の働きのお陰で支えていただいていたのに、私はこれだけやってあげているのだからと偉そうな思いになって、自分本位の我が儘が当たり前になってしまっていたのです。そこで今生では、頂いた力を使って、より一層みんなのために役に立っていかなければならない、ということで生まれてきています。
 しかし四十年間教主としての立場をさせていただいていると、周りの皆さんが私を大切にしてくださ


るので、いつの間にか自分の思う通りが通ることが当たり前になってきています。前生でそれできていますから、私にとって特別ではなく当たり前なのです。すると思う通りにならないことが起きたときに、それが小さな事でもとても大きな不満になってしまうのです。「なんでこんなことになるの」と腹を立ててしまいます。これほど傲慢なことはありません。
 今それが本当に身にしみるように切実に一つの「みしらせ」を頂いて、なかなか解決していきません。そして簡単に解決しない「みしらせ」ほど自分を変えさせていただけるのだ、としみじみと思っています。
 間違ったところにはっきり気付いて、「本当に迷惑かけてきたなぁ。みんなの優しさで助けていただいたなぁ」ということを心から悟り、生き方が変わっていくことです。一つ何かを体験して、「ハァーみんなに悪かったなぁー」と一回気が付いたからと言って、それで簡単に変わるわけではありません。すぐに元に戻ってしまうのです。ですから、何度も


何度も自分の誤りに気付き、お詫(わ)びをする精進を重ねていくのです。
            ○ 
 私は首と背中を手術して動くことができない中でも、ベッドの中で祈るべき祈りを欠かさず行ってきました。こんなに自分本位な我が儘な人間でも、自分がどうしてもやらなければならないことだけは、決して怠らずやってきました。こうして八十九年間命を頂いているということは、この立場に対する責任を貫いてきているからではないかなと思っています。
 お互いに立場はそれぞれいくつかあります。そのうちのどの立場が自分にとって中心となる立場であるかをはっきり知って、その立場に対する責任を本当にどんな日でもやっていくという覚悟が必要なのです。
 例えばわが家の先祖の慰霊供養は、月のうち一週間だけはしっかりやって、他の日は短くやっています。一週間は本当に根性を入れてやります。自分の立場としてそれを責任を持ってやっていくことで、


こんな体になってもお祈りする時は不思議に神前で正座ができるのです。立って歩けないのに正座ができます。
            ○ 
 幸せになるために信仰しているというのは間違いです。教祖がこの教えを説いて残されたのは、ただその時だけ人を幸せにするというのではありません。自分の間違っているところに気が付き反省することをもって前に進んでいけるよう、という慈愛でもって残してくださったのが、自然社の御替象であり「みおしえ」なのです。
 生まれて出てくる時に何かを浄めて精進するために、健康を付けてくださるか、お金を付けてくださるか、寿命を付けてくださるか、これはその人その人違いますが、必ずお徳を付けてくださいます。その代わり、それを使って前生での自分本位の我が儘を少しでも気付いていけよということなのです。気付いたら消えていきます。消すのは自分ではなく神様です。 ですから変わりたいという思いをはっきり持たなければいけません。それがなかったら、


神様は変わらせてやりようがありません。自分の癇癪を(かんしやく )起こすところを無くしたい、冷静に相手の気持ちになれる人に変わりたい、そのように変わりたいという思いをまずはっきり持つことです。
 そしてその目標を持って、何か形に表しての努力をしなければいけません。形の上で変わればいいことすら変えられないのでは、心が変わるわけはありません。棚からぼた餅は落ちてきません。
 変われるのは神様が変わらせてくださるのです。神様から見たら誰もがかわいい子で、かわいい子が願いを持ってけなげに毎日毎日努力をしていたらほってはおけません。そこで頑張っていると、ご褒美でいい体験をさせていただくこともあります。でもそれでいい気になってはいけません。決勝点ではないのです。
 前生までの長い年月積んだものがすぐに消えて無くなるわけはありません。しかし努力を積み重ねていけば、必ず浄心に向けて進んでいっていることは間違いありません。目標を変えないでそれに向かっ


て同じ努力を重ねていくこと、それをひたすら続けていただきたいと思います。
          (令和六年四月七日関西連合婦人会御親教より)




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