今月の言葉 > 自然誌 文章から > 令和 6年 1月号 真理の展望
気付いたことは今行う
橋本のり子
神言の「護(まも)り給(たま)え導き給え」の導きというのは気付きのことであり、その気付きを大切にしましょうということを昨年から幾度も申してきております。信仰者として、気付きをどれだけ大切にしているのか、振り返ってみてください。
気付くということの中には、様々なことがあります。試験を受けに行く時に、受験票を持っていくことをフッと思い出して、忘れずに済んで良かった、という重要な気付きもあります。
しかし、小さいと思えるような気付きもいっぱいあります。例えば廊下にちょっとしたゴミが落ちていることに気付いたのも気付きです。気付いたのですから、すぐに拾ってゴミ箱に入れるべきです。しかしトイレに行く途中に気付いたことで、トイレを出てから後で拾おうと思って素通りして、帰りは影
が逆になっていたためにゴミが見えなくて忘れてしまったということがあります。
気付いたのですから、その時にそれを拾ってゴミ箱に入れて、それからトイレに行けばよかったのです。面倒だから後でいいと一瞬思うのですが、それをなくしてすぐに行うことが精進なのです。それが幸せな道につながっていくのです。
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幸せという言葉は大(おお)雑(ざつ)把(ぱ)な言葉ですが、それは何かと言うと、自分の進むべき道を歩んでいって、神様から頂いているお徳を使って、御心(みこころ)に従った全うした人生を終わることができるということです。何も困ったことがなく、ストレートに行くということではありません。精進する課題があるからこそ生まれてくるのですから、そのような課題が何もないなら、生まれてくるはずがありません。
生まれてくるというのは、前生で間違った生き方をしてしまった、人に迷惑を掛けてしまった、何かを汚してしまったということで、神様から見たら曇
っているところを、もう一回世の中に出してあげるから、浄(きよ)めていきなさいよ、ということで、この世に生まれてきているのです。
思うようになることばかりで通っていくと、人間は反省もしないし踏みとどまることもない、お詫(わ)びする心もない、どんどん偉そうになるばかりで一生が終わってしまい、せっかく生まれた意味がなくなってしまいます。
しかし人生では、必ずつまずくことや困ることに出遭います。その時に誰かに助けてもらったり、寄り添ってもらったりします。そこで初めて人の有り難さに気付きます。そして次には自分が誰かに対して同じように助けてあげよう、という気持ちになります。そのようにいろいろな体験をして、心を育てて自分がより良く変わっていくために、この世に生きているわけです。
人間は一足飛びに変わってはいけません。いろいろな出来事に出会い、その中で自分のできる事を一つ一つ行って、一歩一歩前に進んでいくのです。そのために気付きがあるのです。
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私は以前大きな失敗をしました。巡教に行く時に一番大事な荷物は教務服ですが、その教務服を忘れたことがありました。その教堂の教堂長であった堤興吉先生が、もう一つ持っていますからと教務服を貸してくださったお陰で事無きを得ました。それはだいぶ寒い時期のことでしたが、堤先生のお姿を見ますと、ご自身はなんと夏用の薄い教務服を着ておられたのです。それから何十年経(た)っても、本当にありがたかったし申し訳なかったと、時々思い出します。それから後は、巡教の際にはまず教務服のことが一番に頭に浮かびますので、忘れる事はありません。
このように、教務服のような大切なものに気付くことは、大きな重要な気付きだと普通は思います。そして落ちているゴミに気付くことは、とても小さな軽い気付きで大したことではないと考えがちです。しかし、気付きに思いも軽いもありません。神様が私たちに働き掛けてくださった大切な気付きであることに変わりはありません。
本宮月(つき)次(なみ)祭(さい)の直前に、参列しておられた方の体にカメムシが付いているのを石川さんが気付かれて、すぐにパッと落としてくださいました。小さなことのようですが、式典中にカメムシを刺激することになったら、その臭いで大変な事になったかもしれません。物事の大小に関わらず、気付いた事をすぐに実行することがとても大切なのです。
どんな小さな事でも、神様から「お前が順なる人生を進むために必要なことだ」ということで、必要な事に気付かせていただいたのです。気付きは御心から出た神様からの合図なのですから、重いも軽いもなく、大きいも小さいもありません。
ふと気付いたけれど、小さい事で面倒くさいから無視してしまおう、とそれをかき消して、無かった事にしてしまうとしたら、それは神様からの合図を消してしまうことで、大変申し訳ないことで、またもったいないことなのです。
そしてこのことは、「みおしえ」の実行についても言えることです。大きな「みしらせ」があって「
みおしえ」を頂き、先祖のつみごとや供養などを教えていただくと、大きなことに気付かせていただいたと思い、重要な問題だと受け止めて大切にします。それは当然のことです。
しかし、自分の心癖を教えていただいたときに、いつもの「みおしえ」だと思い、先祖のことと比べたら小さなことだと受け止めるとしたら、それは全く誤っています。
家の流れを浄め、自分の心を浄めていく上で、どちらも同様に大切な事で、その重要さには大小はありません。生活の中のちょっとしたことで自分の心癖が出て、それに気付くことができれば、それは自分の魂の浄化となり、同時に家の流れを浄めることとなる、とても大切な一歩なのです。その実行をマメにやっていくことが、家の浄めとなり、子孫の幸せに繋(つな)がっていくのです。
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ある事をした方がよい、とせっかく気付いても、面倒くさいと思い明日でもいいと考えて先延ばししてしまうのは、今の大切さを分かっていないからで
す。今日の一日がどれほど貴重なものであるかに気付いていないのです。
そのような人は、いつまでも命があると漠然と思っていますが、人間の命には必ず終わりがあり、それは明日かもしれません。精一杯精進して心を浄めてきなさいと、この世に生まれさせていただいている私たちであるはずですが、今日は気が向かないのでお休みにして、その精進は明日にします、と言って先延ばしにしているうちに、寿命が来てしまいます。
今日が人生最後の日だと思い、何かに気付いたら、今やるべきこととして行っていくという、気付きに積極的に取り組んで、心がすっきりとして明るく生きていけるということを体験していただきたいと思います。