今月の言葉 > 自然誌 文章から > 令和 5年 1月号 真理の展望

「つみ」に気付く
橋本のり子


 新しい年を迎えた今、新しい気持ちになって信仰に取り組んでいただきたいと思います。特別な事に取り組むこともいいでしょうが、毎日の当たり前の暮らしの中で、しっかりと信仰を生かすことが何より大切だと思います。そこで生活の中で「つみ」に気付くということを述べてみます。
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 信徒の方々の中には、何かの「みしらせ」を通して頂いた「みおしえ」で先祖の罪ごとを教えていただき、お詫(わ)びをしたりお慰めをしたりということをされている方が多くあると思います。
 私も先祖の罪ごとをお詫びし、鎮まっておられない方々の供養をしています。それをし始めた当初は、「うちの先祖はこんな悪いことをしていたのだ」と、少し先祖を咎(とが)めるような思いを持った


りしていました。人を殺さないまでも、大(おお)怪(け)我(が)させたり、家を焼き払ってしまったり、倒産に追い込んだりなど、とても悪いことをしたために、子孫がこういう大きな「みしらせ」を頂くことになっているという、あたかも自分が被害者であるかのような思いをしていました。
 しかし祖霊拝詞にありますように、先祖の心は自分の心と一つであって、決して他人事ではありません。自分の心の中には、罪を犯した先祖と同じものが流れているのです。
 嫁いだ来た家の先祖に大きな罪ごとがあると教えられますと、その時は驚きますし、たまたま嫁ぎ先がそのような家であったと考えて、自分の問題ではないように受け止めるかもしれません。しかし嫁いできたということは、自分にも必ず同じような質が流れているということで、決して他人事では無く、自分自身のことなのです。
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 他人に大きな迷惑を掛けることは「罪」と漢字で記しますが、そのような大きな出来事は何の原因も


なく突然現れてくるものではありません。その人が「罪」を犯す前に先祖代々、小さな心の誤りを少しずつ積み重ねていくうちに、やがてそれは強く大きなものになり、何かのきっかけで「罪」となるような過ちを犯すことになるのです。
 積み重ねることから「つみ」と言うのですが、日頃何気なく積み重ねている誤りをひらがなで「つみ」と言い、人に大きく迷惑を掛けたものは漢字で「罪」と記すようにしています。大きな「罪」は滅(めつ)多(た)に犯すことではありません。しかし誰でも、ひらがなの「つみ」となることは知らないうちに何度も繰り返しているのです
 例えば、誰かに「こういう物を買ってきて」と頼んで、買ってきてもらったものを見た時に、自分の好むメーカーのものではなかったり、自分が思っていたものと違ったりしたとき、見た瞬間に「えっ、これ何」と一瞬ではあっても不満に思い、相手を責める気持ちが湧くことがあります。そのような思いが「つみ」となるのです。
 このひらがなの「つみ」は誰もが一日の生活の中


で大なり小なり、何度も出しています。言葉として外には出しませんが、自分の心の中で出しているのです。それが少しずつ積み重なって、いつしか重くて強いものになって、やがて大きな「罪」を犯す元になるのです。
 私が嫁いできてしばらく経(た)った頃のこと、母から「のりちゃん、人間はね、思うただけでもつみになるんよ」と言われました。その時はピンと来ませんでした。思っただけでつみになるなんて敵(かな)わないな、という思いがしました。そしてそのように言われたこともいつの間にか忘れてしまいました。その母が亡くなってもう五十年になりました。
 その後色々大変なことが起こった時に、私は「夢も希望もない」と思うこともありましたし、一生懸命やっても全然違う受け止め方されたりをした時には、本当に腹を立てました。
 そんなある時フッと、そう言えばお母さんが「思うただけでもつみになるんよ」と言われたことを思い出しました。なぜ母が突然その言葉を私に掛けた


のか、その時は分かりませんでしたが、今ではよく分かります。母がそばで見ていて、私が言葉に出さなくてもフッと怒った表情をしたり、面倒くさそうにしたりするのが、人生の大先輩ですから全て見えていたわけです。それで、一度は伝えておかなければいけないと思って、私に言ってくださったのだと今ならよく分かります。
 私たちはひらがなの「つみ」を朝から夜までの間に、いくつもいくつも出しています。そしてそのままにしておくと、それは必ず積み重なっていきますから、それを浄(きよ)めていく必要があるのです。
 自然社では浄心ということを目的にして浄(じよう)心(しん)行(ぎよう)があり、それによって心を浄めていただけます。しかし、たとえ浄心行に参拝し続けたとしても、残りの一日の生活の中で次々と、不満を思ったり人を責めたりする思いを出していますと、浄めるよりも汚れる方が多くなります。
 そこで大切なことは、生活の中で自分の「つみ」


となる心に気付いていくことです。気付くことで必ず「つみ」を浄めていただけるのです。
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 先祖は大変な事をしたが、自分は漢字の「罪」となるようなことはしていないので、何の問題も無いと思ってしまいます。人を殴って怪我させたとか、貴重な物を壊したとか、そういう形で現れるようなことは何もしていないので、お詫びすることなど無いと思っています。しかし、たとえ小さくても心の中で人を傷つける思いを出したことは、必ず「つみ」として重なっていくものだということをよく知っておかなければなりません。
 漢字の「罪」となることをした人は、形の上で現れたことですから、自分自身でよく分かります。癇(かん)癪(しやく)を起こして人の体や心を傷つけたり、狡(ずる)いことをして相手に大きな迷惑を掛けたり、不注意で交通事故を起こして怪我させたりすると、自分のした事とはっきり向き合うことになり、死ぬまで忘れずにお詫びをしていくと思います。


 しかし、普通に生活をして揉(も)め事(ごと)も何にもなかった中で、ひらがなの「つみ」となる思い、自分の心の歪(ゆが)み、責める心、対立する心、排斥する心が出ていますが、形に現れないので気付くことが難しく、何も無かったかのように思ってしまいます。しかし必ずそれは積み重なっていくのです。ですからそれを浄めていかなければなりません。
 それにはどうするかと言いますと、朝の神言を唱えた後に、「私が『つみ』となる心を出した時に気付かせてください」とお祈りすることです。気付きたいという思いが無ければ、なかなか気付くことはできません。そしていくら気付きたいと思っていても、自分の力で気付けるものではありません。神の恵みによって気付かせていただけるのです。毎朝真剣に「気付かせてください」とお祈りしていると、必ず気付かせていただけるようになります。そして浄めを頂けます。
 今日の一日が貴重な浄心の一日であると知って、一回でも多く自分の「つみ」に気付かせていただき


たいと願って生きていきましょう。




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