今月の言葉 > 自然誌 文章から > 令和 4年 7月号 真理の展望
やり直しができる
橋本のり子
明るい色で過ごす
長いお付き合いをしている人から、最近手紙が来ました。「死にゆく者の心得を教えていただきたい」という内容で、色々な本を読んだけれども答えを頂けなかったので教えてほしい、ということでした。それでフッと、私も死にゆくことを考えてもいい年なのかもしれないと思いました。
うちの家系は長生きだから自分も長生きできるとか、生まれつき体が弱いから短命だとか勝手に思うかもしれませんが、どうなるかは全く分かりません。しかしもしあと何日で死ぬと知ったとしたら、一日ごとにその日が近づいてくるわけですから、不安で一杯になると思います。ですから、自分が死ぬ日を知らないということは、神様からの最高のお恵みです。
そこでいつ死ぬか分からないのですから、その日その日、その時その時のことをこれが最後という思いで取り組むことが大切です。
自分の人生は一日一日の積み重ねの結果です。最後にすごいことをして、満足な人生だったというものではありません。積むべきものを毎日積んでいくことによって、最後の瞬間に何の思いもなくスッと向こうへ入っていけるのです。あれをしとけばよかった、もっとこうすればよかったと、一瞬後悔の思いを持って死ぬのではなく、自分のやることをやれば、欲張る気持ちも無念な気持ちもなく、穏やかな心でスッとあの世に行けます。
人生を色で表すとき、どういう色で終わっていくのが良いかと考えますと、やはり明るい色でありたいと思います。黒とかグレーなどよどんだ色ではなく、華やかでなくても明るい温かい色で人生を過ごし、そのまま最期を迎えることができたなら、素晴らしいことだと思います。
そのためには、毎日することを楽しんですることです。「今日もまたこれか」ではなく、「今日もこ
れがやれる」という楽しむ気持ちを重ねていけば、感謝の気持ちで最後を迎えることになります。
円(えん)錐(すい)形(けい)を横から見れば三角形ですが、上から見れば円に見えます。一つの物事を、尖(とが)った見方をすれば腹立たしいものになりますが、のんきな気持ちで見れば楽しいものに見えてきます。人から「そんな状況にあって、なんでニコニコしているのか、おかしい」と言われても、気にすることはありません。
自分の人生は自分が決定していくものです。人生の色をグレーだとすることも、明るい色だとすることも、自分が決めることです。例えば何かの理由で電車に乗り遅れたとして、「あの人のせいでこうなった」という不満の思いが消せないとすれば、それは自分で人生をグレーにしていることになります。「きっとあの電車に乗らない方がよかったのだ」と思えば、明るいものとなります。ですから、「一切は恵み」ということを心にしっかり刻んで、毎日を楽しむ気持ちで過ごしていくことが大切です。
質問をしてきた人は信仰していませんので、「一
切は恵み」という言葉は使いませんでしたが、人生の色についてお話ししました。するとその方は「分かった。私はオレンジが好きだから、夜布団に入ってからオレンジ色の一日だったなぁと思うことにする。いいこと聞いた。ありがとう」と答えてくださいました。
やり直しができる
私が最近しみじみと思っておりますことは「人間で今生きているということは本当にありがたいなぁ」ということです。
大失敗したり大恥をかいたり大迷惑をかけたりして、「申し訳ない」と思ったとき、何ができるかというと、やり直しができるのです。やり直しができるのは、生きているからです。
霊魂だけの世界に入ってやり直しをするには、大変な時間が掛かります。「申し訳ない」と思っても、やり直しを簡単にはできないのです。
なぜ生きているとやり直しがしやすいかと言いますと、体を持っているからです。体がある以上、じっとばかりしているわけにはいきません。現役で働
いている方なら、生活するための働きをしなければなりません。そして誰にも共通していることは、眠くもなる代わりに、ずっと寝ていようと思っても眠り続けられるものでもなく、やはり目が覚めてしまいます。
そしておなかもすきますし。トイレにも行きたくなります。自分の体を動かさざるを得ない状況になるのが人間で生きているということです。つまり生きているということは、必ず態勢を変えるということなのです。水も飲まずご飯も食べず、ずっと寝ていたいと思っていても、トイレに行きたくなる、喉が渇く、すると肉体上の形に動作を変えることになります。トイレまで行くために体を動かします。喉が渇いたら台所まで行ってコップに水をくんで飲まなければいけません。今までの状況から、形を変える、体の動きをする、ということは変わるということです。
人間として体を持って今生きているからこそ、思い直しをして変わっていけるのです。
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あの世では、寝たければ五十年でも百年でも寝たままでおれます。またお酒が飲みたいと思ったら、誰か飲める子孫に取(と)り憑(つ)いて、自分が満足するために子孫が飲み潰れてしまうまで飲み続けることになるのです。
自分の力だけではなかなか変わっていけないのが幽界ですが、その中で少しずつでも霊魂が動き変わっていく力になるのは、子孫の思いです。子孫が祈ってくれること、そして思い出してくれるだけでも、霊魂が動き、変わっていくきっかけになります。
「お父さん頑固だったけど、亡くなってみてよく考えたら、やっぱり優しかったなぁ」「家族のためを思ってくれてたなぁ」子孫や孫たちがそのように色々な事を思い出してくれる、そのために年祭があるのです。
教長様は奥様(つまり私の姑(しゅうとめ))が先に亡くなりましたので、一年祭、三年祭、五年祭とその年祭を欠かさずしておられました。ある時私は教長様に「何故(なぜ)お母さんの年祭をされる
のですか」とお尋ねしました。すると教長様は「お母さんは供養をしてもらうようなことは要らないのだが、親しかった人が集まって、故人を思い出して語り合う、これが大事なんだ。それが幽界での進歩の元なんだ」とおっしゃっていました。
亡くなって間もなくは十日、二十日、三十日、五十日と日祭を細かくするのは、あの世に行ってすぐに自分のことを忘れないで思っていてもらうのが一番力になるからです。そのうちに一年、三年、五年で、その後は五年おきになり、最後五十年祭をしたら一応先祖返りで終わりとなります。
そのように、子孫が度々思い出してくれることで、御(み)霊(たま)は嬉(うれ)しく思い、心が動き、幽界で進歩していける元となるのです。
ただしそれは裏を返せば、それだけ幽界での精進は難しいところがあり、心を変えていくのは容易ではないということです。生きて体を持って日々暮らしていけるからこそ、心を変える機会を頂けるのです。それがどれほど恵まれているかをよく知って、今生きていることを心から喜んで、一日を大切にし
て過ごしていただきたいと思います。