今月の言葉 > 自然誌 文章から > 令和 4年 1月号 真理の展望

楽しむ心
橋本のり子


 物事を喜んですることが大切であることは、よくお分かりと思います。「しんどいなあ。面倒だなあ」と思って嫌々していたり、「これは元々私の仕事じゃないのに」と不満を思いながらしていたら、心の籠もった働きはできません。仕事が捗ら(はかど )なかったり、抜けが多かったりします。大事な事に気が付かず、大きなミスをすることにもなるでしょう。
 ようやく仕事を仕上げても、充実感は無くて疲ればかり感じるでしょうし、最後まで続かず途中で投げ出してしまうこともあるかもしれません。
 どんな経緯であっても、とにかく最終的には自分がやることですから、「自分の意志でこれをするのだ」とはっきり意識して、少しでも喜ぶ気持ちを持って取り組むことが大切です。


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 母は大病してから、坂道を上ることがかなり応えるようでした。しかし上り坂を歩くときに「苦しい」とは言わず、その代わりに「六根清浄」と言いながら歩いていました。「六根清浄」は行者が山を歩く時に唱(とな)える言葉で、山を歩くことで心身を浄(きよ)めていただいていることを意識するための言葉です。母は若い頃に身延山に詣っていた時にその言葉を覚え、坂道を上ることで自分の心身を浄めていただけるのだと受け入れて、プラスのことだと受け止めながら歩いていたのかもしれません。
 もしも「ああ苦しい、苦しい」と言い続けながら歩いていたら、途中で気力が無くなってしまったかもしれません。「六根清浄」と唱えることは、歩くことに喜びを見いだす手立てだったのだと思います。
 この母の姿を思い出して、私なりに取り組んだことがあります。


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 皆様の「みおしえ」願いは、教堂から私の家に直接郵便で届きます。大事な「みおしえ」願いですから、届いたら一刻も早く「みおしえ」をさせていただき、出来たらなるべく早く投(とう)函(かん)して教堂に送るようにしています。しかし郵便の配達は日によってまちまちで、早い日は午前中に届きますが、遅い日は夕方五時近くになります。そこで毎日何度も手紙が届いているかどうか、郵便受けを見に行くことになります。
 ところが私の家の郵便受けはガレージの扉に付いていて、階段を降りていかなければ行けません。足がすっかり弱くなった私にとって、階段の上り下りはかなりな重労働です。せっかく見に行ってもまだ届いていないときには、つい「どうして決まった時刻に配達してくれずに、日によってこんなに違うのかしら?」と配達員に不満を湧かせていました。そして不満を思ってしまう自分について、このような思いを出してもいいことはない、とも感じていまし


た。
 そんなある時「あっ、これはリハビリだ」と思い付きました。足の弱った私があまり運動をしていないとますます弱ってしまいますから、階段を上り下りすることは足を鍛えることになっているのだ、と思い当たったのです。そこで、郵便受けを見に行くたびに「リハビリ、リハビリ」と声に出すことにしました。それを実行してみると、全く不満が湧いてきませんでした。ちょうど母が「六根清浄」と言いながら坂道を上っていたように、私もいい習慣を手に入れられたと喜んだのでした。
 それからそれをずっと続けていましたが、ある日、口では「リハビリ、リハビリ」と言っていながら、心の中では配達員に対して不満一杯でいる自分に気が付き、残念に思うよりも可(お)笑(か)しくなってしまいました。これほど我(わ)が儘(まま)な思いの強い自分だなあ、と改めて気付かせていただきました。
 何事も喜ぼうと思って取り組んだことですが、一度決意したからと言って、簡単に身に付くことでは


なかったのです。
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 初代教長橋本鄕(さと)見(み)先生が「何事も喜びて神業のまにまに生くることが人生である」という言葉を残してくださっています。自分の身の上に起きてくることは、自分の霊魂を浄め高めていくための神業ですから、一切が恵みです。何が起きてきても「一切が恵みだ」と喜んで受け入れて生きていくのが、人としての根本的なあり方なのです。
 私たちはその心境を目指して精進していて、少しその心境に近づけたと思うこともあります。しかし教長様のおっしゃった言葉をよくよく味わえば、それはとても高い心境を述べた言葉であることが分かります。つまり、何事が起きても常に喜べる心境に到達していれば、如何なる(いか  )ときでもただ神業のまにまに生きていけるということを述べておられるのです。
 一方私たちはどうかと言うと、自分の望んでいなかった神業が現れたときに、すぐに喜ぶことはなか


なかできません。「なんで、どうして!」と不満が湧いたり「ああ大変だ!」と心配したりと心が動揺します。その後で「一切が恵みだ。何事も喜べだ」と心を切り替えて、現実を嫌がらず正面から向き合って行くというというようなことになっているのです。
 また、一度は喜んで受け入れたものの、時が経(た)つにつれてその決意が薄れて、自分の心癖が出てきてしまうことにもなるのです。
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 昨年の秋に面白い体験をしました。
 ある方からイチジクをたくさん送っていただきとても嬉(うれ)しかったのですが、一人では食べきれません。そこでジャムとコンポートを作ろうと思いました。イチジクを剥(む)き始めて間もなく、田舎の祖母がイチジクが好きだったことを思い出しました。そして戦争中に田舎に疎開したときのことを色々思い出し、懐かしくなりました。
 ふと、たくさん剝くと「ばね指」になって剝けな


くなるかもしれないと思いましたが、テーピングすれば大丈夫かもしれないとすぐに思い付き、やってみるとうまくいきました。こうして楽しい思い出に耽(ふけ)りながら作業をしているとあっという間にイチジクを剝き終わり、午前中にジャムとコンポートが出来てしまいました。余りにも早く終わったので我ながら驚き、楽しみながら物事をするということは、物事が捗ってとてもいいことなのだということに気付きました。
 何事も喜んでし続けるというのは難しいことで、勢いを付けて喜びの心で始めても、そのような気持ちは長続きせず、すぐに他の思いが湧いてきてそれに捉われるということになります。しかし、楽しむ思いからは、批判や排斥、不満、対立という和を欠く思いは出てきません。穏やかな気分に包まれて、長い時間続けていけるものだと分かりました。
 「何事も喜ぶ」という境地にはまだまだ遠い私たちですが、その時その時を少しでも楽しむ気持ちで行うことは、できることです。どのような気持ちで過ごすかは、結局自分で決めているのですから、自


分なりに工夫をしてその時々を楽しく過ごすことを心掛けていきたいと思います。
 まず自分の現在の気持ちがどんな状態なのかを見詰め、小さなことでいいですから楽しむ思いとなってやっていきましょう。そして「何事も喜ぶ」という心境に一歩一歩近付いていきたいと思うのです。




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