今月の言葉 > 自然誌 文章から > 令和 3年 7月号 真理の展望

幸せのための信仰ではない
橋本のり子


 皆さんは何のために信仰をしていると思っていますか。幸せになるための信仰だ、と思っている人もいると思います。確かに、信仰をしているお陰で様々な困難を解決し、幸福を感じることは多々あるでしょう。
 しかし信仰する真の目的が幸福になるためだと思うのは、大きな間違いです。信仰の真の目的は、自分の霊魂を浄(きよ)め向上することにあるのです。それは何故(なぜ)かと言いますと、この世に生きている目的が、霊魂を浄め向上するためだからです。
 幽界で百年か何百年かを過ごし、ようやく順番がきてこの世に生まれてくる時に、前生で間違ってしまった生き方を改めて、心を浄め向上するという大切な課題を与えられて生まれてきます。生き方を改


めるためには、自分の何が間違っているかを知らなければなりません。自分を知り、どう改めていけば良いかを知り、それによって向上していく、そのためにこそ信仰があるのです。
 私たちは苦痛という「みしらせ」を頂き、その苦痛の原因を教えていただく「みおしえ」を頂きます。この時、もしも幸福になるための信仰だと思っていると、苦痛が解決するとそれで安心してしまい、「みおしえ」の実行が疎(おろそ)かになります。
 大切なのは「みおしえ」の実行です。自分がどんな人間であるか、どこを改めていかなければならないのかをはっきりと知って、それに向かって精一杯の努力をしていくことが最も大切で、それこそが信仰生活です。ところが、幸福になるための信仰だと勘違いしていると、その大切な精進の部分が抜けてしまいます。苦痛がなくなればいいと思っているなら、それでは信仰している意味がありません。
 例えば、他人の欠点を見てただ批判したり嫌ったりするだけで済ませてしまっているとしたら、それ


は信仰を全く生かしていない姿です。「人は鏡」と教えられているのですから、自分にも同じようなことがあるに違いない、どんなときにそのようなことをしているだろうか、と振り返るところに信仰があります。
 あるいは、人から自分の欠点を指摘されたときに、「失礼な人だ」と腹を立てるだけで終わってしまっているとしたら、信仰をしている姿だとは言えません。自分の問題点を教えていただき、それをその通りだとはっきり気付けば、それこそ生きている目的に合致することですから、指摘していただいたことは大変有り難いことだ、と感謝するのが信仰者の姿です。批判された時すぐに感謝ができれば申し分ないことですが、少なくとも後でじっくり相手の言葉を味わうことは是非必要です。
 このように、霊魂を浄め向上していくことこそが信仰の目的である、ということをしっかり腹に入れておきましょう。
困難なきところに向上なし
 二月の信仰向上会の時、最後に一言「困難なきと


ころに向上なし」と申し上げました。私たちは困難に出遭ってそれを乗り越えていくときに向上していくのです。
 子供は子供なりの困難があります。例えば、お客様に出すお菓子が欲しくても、「欲しい」とは言わずにぐっとこらえなければならないときがあります。これは「我慢」で、子供のうちは我慢して耐えることによって精神力が養われていき、強くなっていくのです。
 大人になったら、「我慢」ではなく「忍耐」でなくてはなりません。自分の気持ちを押し殺してただ我慢をすることばかり重ねていると、いつか耐えきれなくなって爆発してしまいます。忍耐は我慢とは異なり、自分の意志で選んで耐えていくことです。現実を見つめてそれを自分のこととして受け入れていくことです。
 教長様は「みおしえ」をされる部屋に「浄心、忍耐、反省」の三つの言葉が書かれた額を掲げておられました。霊魂の向上に必要な要素としてこの三つを掲げ、座右の銘としておられたのです。困難に出


遭ったときに、それを嫌がって不満に思ったり、嘆いて落ち込んだりすることなく、今の自分にとって必要な出来事として受け入れるのが忍耐ですから、そこには必ず前進していくという希望が含まれているのです。
 このように、困難に出遭ったということは、自分を向上させてくれる大切な機会なのだとはっきり心に入れておきましょう。
コロナ禍の今こそ向上を
 ところで、今のコロナの状況は「国難」です。世界中の難であり、オリンピックを目前にした日本の国にとっては大困難です。多額の赤字国債を出している最中にさらなる借金を作って、先々の人たちにとって大変困ることになります。財政困難に陥るということは国力が落ちることで、世界からは信用していただけないことになります。
 この国家の困難は、国という家の困難で、家の困難はそのまま自分の困難です。「困難なきところに向上なし」と言われているのですから、このコロナ禍という困難は、自分の向上にとってまたとない機


会だと言えます。ですからコロナが収束した時に、少しでも向上している人になっていなければなりません。マスクをする習慣だけがついて、その他には何の向上もないのでは情けないことです。是が非でも、このコロナ禍の間に何か向上した、と言える生き方をしましょう。
 昨年の信仰実行目標は「人間たらしめる生き方を貫き向上の一年としよう」でした。しかし、信仰実行目標よりもコロナ感染にとらわれて、実行がおろそかになったきらいがあります。そこでもう一度「人間たらしめる生き方」の意味をしっかりと思い出していただきたいと思います。向上を求める者にとって、「人間たらしめる生き方」がとても大切です。
 本能というものは人間にも動物にもあります。人間にしかないものは何かと言うと「意志」で、自分の生き方を自分で決める力です。「人間たらしめる生き方」とは、自分の意志の力をしっかり働かせる生き方で、それによって向上していくことができるのです。


 今までこれをやってきたけれどやらないことに変えよう、あるいは反対に今までこれをやらなかったけれどやる人に変わろう、と願って変わっていくことです。
 例えば、夫はあんな人だから私が不満に思うのは当然だ、と思って来た人が、自分の人生を明るいものに変えようと願い、もう夫を不満に思うのは止めよう、と決めることです。家での夫がだらしなくて、不満に思いながら片付けをしていたけれど、どうせ自分がすることになるなら、初めから自分の仕事と思ってしようと決めるのです。夫の良い所を探して、一生懸命仕事してくれているからそれだけでいい、と決めて夫の後片付けをしていくと、これまで嫌だったことが喜んでやっていけるようになります。毎日が明るいものになっていきます。これが意志の持っている力です。
 コロナ禍が収束するまでの間に、何か一つ向上することができた、と言えるように、目標を持って生活をしていきましょう。




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