今月の言葉 > 自然誌 文章から > 令和 1年 8月号 真理の展望
人から学ぶ
橋本のり子
この年になりまして、人間は人から教えていただくという気持ちを持ち続けることが大事だと感じています。小さいうちは一つ一つ親から教えてもらい、兄弟から教えてもらい、学校で教えていただき、段々大人になっていきます。成人してからも教えていただくことばかりの積み重ねです。何歳になったらもう教わることは無い、というものではありません。人から教えていただくということは、死ぬ時まで続くものだと思います。
私の義理の妹が自転車ですぐ来られるところに住んでいて、月に一回はお昼のごはんなどを沢山持ってきてくれます。仕事が速いしきれいで本当に学ぶことが多いのです。あるとき、食べた後の食器に付いている油やケチャップなどを、洗う前に紙で拭き取っていました。洋服や靴を買ったときに付いてい
る薄い白い紙を妹は捨てずに残しておいて、それでもって先に拭くのです。そうすると、スポンジがひどく汚れることがなくてすごく楽です。何より、使う水や洗剤がずっと少なくなります。良い事を教わったと思い、早速それを真(ま)似(ね)しています。
主婦を何十年やってくると、自分流のやり方で固まってしまいます。このように違った仕方を知る機会があることは、とても有り難いことです。
嫁からも教わります。家に泊まってお風呂掃除をしてくれるとき、本当に合理的で早くてきれいな片付け方をしてくれます。タワシの置き方一つでも「お母さん、こうしておくと水が自然に切れますよ」「そうだねぇ」とそんなことばかりです。
新聞の集金のおじさんからも学ぶことができました。私の家は玄関の前に十段ほどの階段がありますが、集金のおじさんはいつも階段の中間の所で待っておられます。なぜ上まで来られないのか不思議でしたが、私が戸を開けた時に中を覗(のぞ)くことのないようにという気配りだったのだと分かりまし
た。私では思いつかないその配慮が有り難いと思いました。
皆それぞれ持ち味を持っていて、色々な人から学ばせていただきます。
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先日、自然社の教師職員の懇親会で、ビンゴ大会がありました。正面に景品が並んでいて、そのうちの一つが掃除機だと言う声が聞こえました。私は家で充電式の小さい掃除機を使っています。ところがこの頃急に吸う力が弱くなって、もう一個買わなければと思っていましたので、ヤッターと思いました。ビンゴで一番を取ってあの掃除機を持って帰ろうと思っていますと、本当に一番になりました。これは神様が私に掃除機を持って帰れということだ、と思いました。もうそれしか頭の中にありませんでした。
さて、斜め前の席に座っていた本庁の職員さんが、七番目くらいにビンゴとなりました。彼女は「コーヒーのお好きな先生が本庁に来られた時にいいから」とコーヒーメーカーを選びました。その言葉を
聞いて、私は頭をガーンと打たれたようにショックを受けました。職員さんはみんなのためを考えて選んでいたのに、私はただ自分が欲しいものだけ考えていた、恥ずかしい、負けた、と思いました。
これには後日談もあります。うちに帰って、荷物も片付けずにまず掃除機の箱を開けました。ところがどこを捜しても長いノズルがありません。箱をよく見ましたら「ハンディ」と書いてありました。これでは部屋の掃除ができません。勝手に普通の掃除機だと思い込んで、使うことのないものを選んでいたのです。
この一件で、自分のことだけ考えてしまう自分が情けなくて悲しくて、しばらくショックが残りました。もう少しましな人間だと自分のことを思っていたのが、大間違いだったのです。しかしその後、このことは今年の信仰実行目標の「自分の心を 自分で見る力を養い」に通じることで、お恵みだと思いました。神様が見ておられる私の本性を、垣(かい)間(ま)見させていただけたのです。
そして教長様のことを思い出しました。教長様は
教祖の教えに縁を頂いてからの六十年余りをひたすら精進してこられて、特に「自分を知る」ということを追い求めておられました。しかし亡くなる前日、最後の夜の神拝を終えられて部屋に戻られ、つぶやかれた一言は、「私は、自分のことを何も知らなんだということが分かった、知った」でした。それは、神様が見ておられる教長様ご自身の心の姿を、御自分で初めて見ることができたということです。人生の最後に神様が見ておられる自分の姿を見せていただけたということは、とても幸せなことだと思います。
私も職員さんの姿を通して、少しだけ自分の心の姿を知ることができました。これも人から学ぶことの大事な一つだと思います。
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人から学ぶ、テレビや映像からも学ぶ、とにかく他から学ぶという気持ちを持ち続けることが、人間にとって死ぬまで大事なことです。人間が学ぼうとする気持ちは向上心です。向上しようとすることは、魂を少しでも高めていこうということに繋(つな
)がります。
死んで幽界に行けば、魂を浄(きよ)め高めていくという向上の課題と向き合うことになります。今この世にいる間に、少しでも学んで少しでも向上していこうという生き方をしていくことが、幽界での精進にそのまま生かされていくのです。
それだけではありません。再びこの世に生まれることがあれば、これまで経験したことが魂の奥に記録されていますから、学んで積み上げたことは必ず来世で生かされることになります。もう自分は年を取ったから、今更学んでもあまり役に立たない、というのは大きな間違いなのです。
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もちろん若い人たちには、大いに人から学んで少しでもそれを身に付け、これからの人生に役立てていただきたいと思います。
自分の日頃の事がそこそここなせるようになると、自分はある程度のことが身に付いたと思って、人から学ぶ気持ちが弱くなることがありますが、それは本当にもったいない生き方です。自分が何かを身
に付けたとしても、それは人間の能力や人格の中のほんの一部分のことに過ぎません。
学ぶべき事は無限にあります。そして新しいものを学んで身に付けることによって、自分の働きが大きくなり、人生がそれだけ豊かになります。それは、自分がより幸福な生き方に進んで行くことなのです。
自分が身に付けたものは、世の中全体のことからすればほんの僅(わず)かです。自分以外の人は、私が全く知らないところで様々なことを身に付けています。ですから、この人からは何も学ぶことはない、というような人は一人もいません。学ぶ気持ちがあれば、誰からでも何かを学ぶことはできます。
学ぼうという気持ちがあれば、その機会は無限にあります。今学ぼう、人から学ぼう、という気持ちを持って、少しでも自分としての質を高めていこうという意欲と向上心を持って、これからの人生を生きていただきたいと思います。それが私たち自然社信徒が目指している浄心につながっていくのです。