今月の言葉 > 自然誌 文章から > 平成28年 9月号 真理の展望

二つの心掛けていただきたい事
橋本のり子


○「これが最後」と思って物事をする
 何事も始まりがあれば終わりがあり、今までできていたことでも、ある時できなくなります。高千穂の歌碑祭で私は山に登ることができなくなりました。始めて登った時のことはよく覚えています。しかし永遠に登れるような気持ちでいましたから、最後に登った時に、これが最後というけじめの気持ちは持っていませんでした。ところが翌年に色々な事情があり、その後私の体力も衰えて、結局それ以降登ることができなくなったのです。もう登れないと分かっていたら、最後の時にその積もりでお祈りし、その日まで登らせていただいたことを心から感謝申し上げたところですが、それができませんでした。
 そのことを振り返った時、今日した事がこれから


も同じようにできると勝手に思い込むことは大きな間違いであり、また申し訳ないことになるのだと思いました。
 車の運転についても、私は同じようなことがありました。私は三十五歳ぐらいの時に免許を取り、それからは家の事や教団の仕事で車の運転させていただき、本当に車にはお世話になりました。一人暮らしになってからは、日頃の買い物など無くてはならないものでした。
 しかし高齢となって、これ以上無理して運転して事故を起こしたら申し訳ないことになると思い、自分の意志で免許をお返ししました。ところがその直後、自分の最後の運転はどうだったのか、思い出そうとしたのですが思い出せないのです。何をするために運転し、どこへどのような道筋で行って、最後どのようにガレージに入れたか、全く覚えていません。長年運転をさせていただけて、その最後となる大切な日のことを全く覚えていないということは、寂しく少し情け無い思いになります。
 これは知らず知らずのうちに慣れの心で運転して


いたからだと思います。
慣れと言っても、いい加減に運転していた訳ではありません。乗る時には毎回、エンジンをかける前に「事故がないように」としっかりお願いをしますし、戻って来てガレージを閉めた時に「ありがとうございました」とお礼のお祈りをします。そのお陰で事故を起こすことはありませんでした。
 ここで慣れの心というのは、初めて行う時の謙虚な気持ちを失っていたということです。どんな物事でも初めての時は、緊張して行います。意識して物事を行いますから、自分のしたことがしっかり心に残ります。そして無事にその物事ができたとき、心から良かったと思い、喜びと感謝の気持ちが湧いてきます。
 ところが慣れてくると、できて当たり前という傲慢な気持ちに、知らず知らずのうちになってきます。喜びや感謝が薄くなり、したことの実感も弱くなり、心に深く残らなくなります。
 初心を忘れるなということはよく言われます。しかし、本当に初めての時の気持ちに戻ることはでき


ません。「これが初めてだ」といくら心に言い聞かせても、幾度も経験してきたことでしたら、初めての時の緊張感は出てきませんし、初めて味わうことの感動も湧いてはきません。
 しかし「これが最後だ」と思い、その気持ちで取り組むことはできます。物事には必ず初めがあり、そして終わりがあります。まだしばらくは登れるだろうと思っていた高千穂も気が付くと登れなくなっていて、運転もできなくなりました。いつ終わりが来るか分からないのですから、いつも「これが最後」と思って取り組むことがとても大切です。
 「これが最後」と思うと、そのひとときがとても大事な時間だと思えてきます。時間を大切に使いたいと思います。そして車の運転でしたら、車の働きの有り難さが感じられて、車が愛おしく思えてきます。このように時間を大切にし物を大事にする気持ちになってきます。その時その時に気持ちが籠もり、中身のあるひとときになり、そして目の前の物も大事に扱うことになるのです。
 もしも、いつまでもできる事だというぼんやりし


た気持ちでいれば、その時を迂闊に過ごしてしまい、物に対する感謝も出てきません。
 これは人と接するときにも言えることです。これからずっと会い続ける人だと思っていると、その人と接していても特別感謝も喜びもなく、当たり前のようにして終わってしまいます。しかしもしその人と会うのは今日で最後だとしたら、そのひとときを大事に過ごそうとするでしょう。縁あって自分と会い、自分を受け入れてくれて、共に過ごしてくださる相手だと思うと、感謝の気持ちが湧いてきます。そこでその人に対して誠実に接しようと思うでしょう。「人を尊ぶべし」と神訓で教えていただいていることの実践が自然にできていけるのです。
 毎日を意義深いものにするために、要所要所で「これが最後」という気持ちになって取り組んでいきましょう。

○自分の良い所を見付ける
 私たちは自分のありのままを知っていくという、自覚の精進をしています。特に「みおしえ」によっ


て教えていただいた心癖を実生活の中で気が付いていくということが柱になっています。ところが教えていただくことは、欠点と言える心癖がほとんどですので、自覚と言うと、自分の悪い所を知ることだ、と思いがちです。しかし、それでは片手落ちです。
 自分の欠点を知ることは、傲慢に陥らずに謙虚になっていくという良い面があります。しかし、自分の欠点ばかりを意識していると、自分は本当に出来の悪い人間だと卑下する思いになったり、こんな自分では大したことはできないと意欲を失ったりしがちです。それではせっかく頂いた人生の値打ちを自分で下げることになってしまいます。
 誰にでも欠点があると同じように、必ず長所があります。それはご先祖様から頂いたものであり、その元をたどれば、生まれる時に神様が身に付けてくださったもので、有り難い尊いものです。ですから、自分にどのような長所があるかを知ることは、とても大切なことです。
 私は癇癪という心癖がありますが、根気強さも頂


いていると思います。一つの事を結果が出るまでし続けてきたことがいくつもあり、今この立場を続けさせていただいているのも、そのお陰だと思っています。
 このように、誰にでも自分ならではの良いものを頂いていますので、それが何であるかを見いだしていくために、自分をじっと見詰めるという客観視をしていくことが大切です。そして見付けたものを、家のため世のために生かすことを考え行っていくことを、ご先祖様が喜ばるのです。
 自然誌の表紙裏「人間の本体は霊魂である」の中に「自分の心のありようを知り」と書いてあります。それは、心癖という悪い面だけを知るということではありません。良い面も悪い面も、どちらも自分のありのままを知っていくことです。そのように自分をより良く知っていくことが、その良い面を伸ばし、その悪い面を浄めて、人間として向上していく道だと知ってください。




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