今月の言葉 > 自然誌 文章から > 平成28年 1月号 真理の展望

一切が恵みである
橋本のり子


「『一切が恵みである』との信念を変化に惑わず不動にしよう」という信仰実行目標を頂いて一年間取り組んで、節分まで残り一箇月余りとなりました。私たちは教祖様から、この世の中を人間として生きる上での根本のところを、「一切が恵みである」と言い切った言葉で頂いています。教えを知らない人たちはそれはなかなか理解できないでしょうし、理屈で反論しそうな言葉ですが、それをはっきり言い切ってくださる、そういう教えを私たちは頂いていることがどれほど有り難いことであるかを忘れてはいけないと思います。
 神訓で「世の中にあらはれたる一切のものは皆ひとをいかす爲にうまれたるものと知れ」と教えられています。私たちが皇大神様と申し上げています根源のエネルギーがお働きになって、地水火風の働き


を現され、そして命あるものが現れ、そして人間が現れました。
 魂と肉体が一つになって生きているのが人間です。人間はこの世に生まれて色々な事に出遭って、反省したりおわびしたりして、自分が間違ったところを浄(きよ)めていきます。
 幽界という物の無い魂だけの世界では、お腹(なか)もすきませんしお金も要りません。百年でも二百年でも、じっとしていようと思えば、何もせずに済んでしまいます。しかしこの世の中では、生きていくためには最小限度のことはしなければなりません。
 お水を飲みたいと思ったら、台所まで行ってお水を汲まなければなりません。体を使ってはじめて、心で思ったことが実現するのです。どれほど洗濯物を干すのが面倒くさい、たたむのが面倒くさいと思っても、生活するためにはそれをやっていかなければなりません。
 あるいはまた、プライドが高くて人に謝るのが嫌な人でも、自分に落ち度があるときには謝ります。


たとえ口先だけでも「ごめんなさい」と言って頭を下げなければなりません。どんなに我が儘(まま)で自分の思う通りにしたい人でも、どこかで譲らなければ生きてはいけないのです。この世に生きている意味はそこにあるのです。
 自分の意志で、自分の力で生まれてきた人はありません。皆神慮(みこころ)によってこの世に現されてきています。そして死ぬのも自分の意志ではありません。もっと生きていたいと思っても、その人の寿命が来たら死にますし、どれほど死にたいと思っても、その時が来るまでは死ねません。全て神慮によって生かされているのが私たちなのです。
 そして何のために生かされているのかと言うと、自分の魂を浄め高めていくためです。神様はその人間を少しでも浄化する方向に進むようにと、色々な出来事を現してくださっています。ですからこれを神業(かんわざ)と言っています。それが分かると、目の前に起きてくることが恵みなのだということが、少し分かってくると思います。
 例えば一生懸命受験勉強をした子供が、試験に落


ちたとしましょう。親から見ると「あれだけ頑張ってきたのに、どうして落ちるの」と、落胆して不満になるかもしれません。あるいはまた、このことは是非にと思って神様に一生懸命お祈りし「みおしえ」をお誓いし、体も使って努力してやっていても、結果が違う方向に行ってしまうこともあります。「どうしてなの」と思うでしょう。しかしそれでもそれがお恵みなのです。
 神様がその人を神慮で人間として現してくださっているのですから、その責任としてその人を少しでも目的とする方向に、つまり魂が浄められ高まっていくようにと、色々な出来事を現してくださいます。ですから恵み以外のものは何ものもないのです。ただ自分の都合に合わない、ということで不満に思っているだけのことです。魂の浄化にとっては恵み以外のものは何もないという信念を深くしなければいけません。
 今回の信仰実行目標は、まだあと一箇月残っています。その間しっかりと取り組んでいきましょう。自分の目の前に起きてくる事「一切が恵み」である


と教祖様がはっきりと言われているのです。それを信じなければ、信仰していることにはなりません。自然社の教えを頂いて自分の人生を生きると決めたなら、「一切が恵み」ということを、生きていく上での大きな柱にしていくことです。
 目の前に起きてくる事は神様が出してくださったものだから、ごちそう以外はないはずです。そのものをちゃんと成長させていくために、必要なものを出してくださっているのです。ただ自分にとって嫌いだったり、まずかったり、多すぎたり、少なすぎたりと思っているだけであって、神様から見たらちょどいい時にちょうどいいものを出してくださったごちそうであり、だから恵みなのです。
自分を知らないから
 私もこの信仰実行目標を頂いてから日々、自分自身の生活の中で体験をさせていただこうという気持ちになって、一つ気が付いたことがあります。それは「一切が恵みである」と感じることができないのは、自分が自分のことを知らないからだ、ということです。


 自分というものの程度、自分の実力、自分の心の狭さ、そして自分の癖、そういうものがある程度分かってくれば、目の前に現れた事が今の自分に丁度ふさわしいということが分かってきます。ところが私たちは皆自惚れがあって、実際よりも良い人間であるように思い込んでしまっています。そのために、もっと良い結果が出ていいはずだと勘違いしてしまうのです。
 小さな働きしかしていないのに、自分の働きが大きいと思ってしまっていると、ご褒美が少ないとしか感じられません。少しだけのご褒美を頂くことが自分にはふさわしいのですし、お恵みなのです。もしも大きなご褒美を頂いてしまうと、世の中をなめて自分が駄目になってしまいます。
 例えば、実力が無かったり勉強も余りしていないのに入学試験に受かってしまったら、その程度で進んでいけると勘違いするでしょう。それでは後々本人にとってよいことはありません。また小さな働きしかしていないないのに高い立場を望んでいて、もし望み通りの立場を与えられたら、その重さに圧倒


されて潰れてしまいます。
 自分を知りたいと願い、少しずつ自分がどういう人間なのかという本当の姿が見えてくれば、現れた事が自分にちょうどいいお恵みなのだと分かっていくでしょう。自分の望んでいない事に出遭ったときに「仕方がない」ではなく「まあこれでいいか」でもなく、「これがいい、お恵みだ」と受け止められるようになるのです。
 すぐに恵みだと分かればいいのですが、そうなれないときもあります。しかし一時間経(た)ってでも一日経ってでも、後で「やっぱりお恵みなんだ、これがいいんだ」と思えて、素直に頂いていける人に変わっていけます。それを一回でも多く積んでいくことによって、それが信念となるのです。
 「一切が恵み」という素晴らしい信仰実行目標を頂いている今、少しずつでいいですから、自分を知るということに誠を尽くして、一日の暮らしをしていただきたいと願っております。 




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