今月の言葉 > 自然誌 文章から > 平成18年 1月号 真理の展望

細部と全体像と
橋本のり子

 私たち自然社で信仰する者は、ありのままの自分を知って、心を浄め、世のため人のため、より役立つ人になっていくことを目指して、日々精進をしています。そして、自分のあるがままを、折に触れては「みおしえ」を頂いて教えていただき、日々そのお誓いをして、自分のありのままをより深く知ろうと精進しています。
 ところで、自分のことは自分が一番知っていると言います。また一方で、自分のことは自分が一番分かっていない、他人の目で見なければ自分のことは分からない、とも言われています。
 しかし、「自分のことは自分が一番分かっている」というのが一般的には「常識」とされているのではないでしょうか。
 自分自身のことは、例えば、ずるい気持ちを起こしたり、怠けた気持ちを起こしたり、良い格好した


りしていることについては、細かいところまで分かっています。このような心の中の動きは他人には見えませんが、自分には分かっています。だから自分のことは、人には隠して分からないところも分かっている、誰よりも自分が一番よく分かっていると思っているのです。
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 徳島教堂へ巡教に行った帰り道、淡路島から明石海峡大橋を渡る手前にあるサービスエリアで休憩を取りました。再び出発してランプウェイから本線に入った所で、二本の橋脚に支えられた明石海峡大橋の全景が見えました。
 今まで何度も通りましたが、往きには高速道路が一直線に橋につながっているためか、橋の全体像がそれほど印象に残っていません。橋を通っている時は、橋を吊っているメインケーブルとか、垂れ下がっているワイヤーの一本一本とか、それをボルトでこんな風に留めているとか、道路の継ぎ目などの細部がよく見えます。
 しかし、淡路島側からだと位置が少し斜めになる


し、天候のかげんもあってか橋の全体がよく見えました。
 全体が見える所からは、全体の形とか、美しさとか、受ける感じとかがよく分かります。でもここでボルトで留めてあるといった細部は見えません。全体像が見える位置からは細かいところは見えないのです。
 この橋の景観を見て、人が見ている通りに自分を知るということは、こういうことなのだと思いました。
 自分のことは自分が一番知っているというのは、自分のことは直接見ているから、細かい所まではっきり見て知っていますが、自分というものは色々なものが一つひとつ積み重なって、形作られて出来上がっているわけです。
 周りの人は、その細かなものが積み重なって形作られているものを見て、あの人はこういう人だと見ているわけです。
 自分ことは自分が一番分かっていると思っていますが、それは部分部分のことであって、それが積み


重なって形作られた状態は、自分には見えていないのです。しかし周りの人は自分の全体的な像を、客観的に見ています。
 その全体像を知ることが、ありのままの自分を知るということなのです。
 自然社でいう自己客観とは、「みおしえ」によって教えられたありのままの自分を、細部のことも全体像も、はっきり見るということです。
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 名古屋教堂巡教の時、教務服を忘れていきました。二十年来巡教してきて初めてのことでした。教堂に着いて教務服をカバンから出して掛けておこうと思って開けたら入っていませんでした。
 随行は橋本弘和師で、息子(弘和師)に忘れたと言うのがイヤだったのですが、仕方なく相談したら「私の教務服は教長様のお古の着物で作った夏物ですから着てください」と言われました。「あなたはどうするの」「教堂には余分のがあるはずだからそれをお借りします」と言うのです。
 ところがお詣りの時、広間に行くと弘和師は夏の


教務服を着ていました。なぜ、と思って名古屋教堂の堤師を見ると冬服を着ておられました。弘和師にご自分の夏用のを貸して、冬用を着て汗だくになっておられるのです。
 事柄によっては失敗しても自分が我慢すれば済む場合もありますが、この時は息子にちょっと迷惑かけてしまうと思いました。ところが、信徒が大勢参拝して暑いのに、お年寄りには辛いのでクーラーをあまり効かせていない広間で、堤師に本当に気の毒なことをしました。全体のことを見てみると、思いもよらないところに迷惑を及ぼしていたのです。
 この時はその状態を目の前で見たので、忘れ物をしたためにこの方にまですまないことをしたと分かりましたが、普通はなかなかそういうことには気付けないものです。
 私たちの生活は、世の中というつながりの中で、誰かに助けてもらい、誰かに支えてもらい、誰かに協力してもらって成り立っています。その実例を目の当たりに見せていただいた気がしました。
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 忘れ物をして息子に相談することに悔しい思いをした。忘れて悔しがるのはおかしいのですが、なぜか悔しい思いをしました。それではいけない、すまないと思わなければいけない、という気持ちにもなっているのですが、そういう細かな気持ちの動きは他人には分かりません。
 しかし、自分には、このとき心に感じたり色々思ったことは細かくはっきり分かっています。自分のことは自分が一番分かっている、というのはそういうことなのです。けれども、この思いがあると、橋の全景が見えた、あの状態は見えません。
 それを見ることができる人になる精進をしなければいけません。そうしないと、自分はそんなに人に迷惑かけてないとか、そんなに悪いことはしてないとか、細かく人に気を遣ってやっているとか、人のためにこうやっているということが細かく分かれば分かるほど、自分は「素晴らしいもの」というイメージだけを持ってしまうのです。
 自分のその時その時のことは細かく分かっても、それが積み重なったもので形成された「私」という


ものは、自分には見えません。しかし、自分には見えない全体の姿が周りの人にはよく見えるのです。
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 自分の全体像を他人が見ているように見るためには、自分がどれだけ人の支えとはたらきを受けているかということを感じることです。
 自分が今あるためには、そして自分の立場を今日十分できたということの陰には、どれほど周りの働きに助けられていることか。まず親、兄弟とか、横と縦のつながりの中で協力と支えを頂いています。それから周りの人の忍耐。近しくあればあるほど、耐えて「お互い様だ」という気持ちで受け入れあっている、そういう中にあっての自分なのです。
 と同時に、他人に迷惑かけられたり、他人にイヤな思いをさせられて不足の思いが出たら、自分も同じだけ人に迷惑をかけ、人にイヤな思いをさせ、人に負担をさせているということを分かっていくことです。
「世は鏡人は鏡子は鏡」と「神訓」にありますが、


迷惑な思いをさせられて不愉快になっているということは、迷惑をかけられた相手の問題ではなくて、自分の問題なのです。自分もどこかで誰かにこんな思いをさせている、ということを知っていけばいいのです。そのように精進していくことが、やがて自己客観につながっていきます。




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