今月の言葉 > 自然誌 文章から > 平成17年12月号 真理の展望
人間とは何か
田村國光
一、人間はサルの子孫か?
最近の新聞に、アメリカでダーウィンの進化論(人間はサルが進化したものであるという説)を批判する「インテリジェントデザイン(ID)」論を学校教育に取り入れる動きが広まっていると紹介されていました。
IDとは、人間の存在は進化論では説明できず、何らかの「知的存在」が人間の存在をデザインしたという理論です。日本にIDを紹介した学者は「IDとは宇宙自然界の成り立ちを目的も計画もない機械的な力だけで説明せず、『デザイン』という要因を科学として認めようという理論」であり「進化論には化石による証拠とか実験での証明はない」と述べています。
そして「人間の祖先はサルである」という唯物論的教育では「生命の根源に対する畏敬の念」が育ま
れず、進化論に偏った教育は道徳教育の足を引っ張るもので、IDを教えないと頭は硬直したままとなる、と言っています。
我が国では明治以来、西欧の科学思想が急激に取り入れられましたが、この「科学的知識」が物質中心に偏っているため、人間はサルの子孫であるというダーウィンの進化論は無批判に受け入れられ、常識となっています。
では自然社の教えではこの「人間とは何か」という問題をどのように説いているのでしょうか、本稿の主題に入りたいと思います。
二、ひとはかみの表現である
「神訓」第十一条に、「ひとはかみの表現である ひとより尊いものはないことを知れ」とあります。
神なる「はたらき」は森羅万象を生み出し、万象を「一体活動」として育て大きくしている霊妙な「はたらき」で、現象の世界では人間という形をもって「はたらき」をしておられます。
ですから、現象の世界の中心は人間であり、「ひ
とより尊いものはない」のです。人間と動物との違いは知的な優劣というような能力の差ではなく、本質的な「はたらき」の相違なのです。
人間は「これが自分である」という個の自覚と意志決定の自由を与えられており、自分の生き方の方向を決めることができます。心を浄化し、人間としてより高度な「はたらき」、すなわち他のために尽くし、社会の進展のために貢献することもできるし、自分の利益だけを考えて周りの繁栄を妨げたり、周囲と調和しないで人間社会の秩序を乱す生き方をすることもできます。
このように「個の自覚」と「生き方の自由性」を持っているのは、人間が神の表現であるからで、本能のままに生かされている動物には、この自覚や自由性はありません。したがって人間はサルが進化したものではありません。
三、人間と人間以外
現象の世界は有機的な一体活動をしています。その中心は人間ですが、人間以外の存在は、人間という中核の「はたらき」に対して、周辺という立場に
あり、人間を「生かすため」に存在しているのです。このことは「神訓」第八条、「世の中にあらはれたる一切のものは皆ひとをいかす爲にうまれたるものと知れ」に示されています。
金田徳光教祖の発見された理法が世に現れるまで、あらゆる宗教も思想も哲学も、この人間と人間以外とはその「はたらき」に本質的な違いがある、そしてどのように違うのかを明らかにしていませんでした。
そして、人間以外(生物、無生物、また事柄も含めて)という「ひとをいかす為にうまれた」存在は、人間の側から見ると、常に人間の向上に役立つ何かを教えているのです。このことは「神訓」第九条、「宇宙に顯れたる一切のものは道と知れ」に示されています。
「神訓」第九条に教えられているように、人間は自分の周囲に現れてくる一切の物事を通して、その時そのときの自分の有りのままの姿を知って、自分の向上に役立つ何かを学ぶことができるようになっています。
これは、自分という人間と周囲に現れてくる一切の物事とは、形の上では別々に見えますが、自分と周囲は一体であって、周囲のものの姿はそのまま自己の姿であるからです。これを周囲の側から言えば、自分に対してその時その時の自分の有りのままの心の「ありよう」を教えているのであり、それによって人間は自己の真の姿を自覚することができるのです。
「環境は自己なり」という言葉があります。これは多分に教訓的な意味で使われてきた言葉ですが、この言葉の真意は、単なる道徳的な教えや教訓ではなく、そこに自分の真実の姿があるという天地の理法でなのです。
四、二十一箇条は一つのことを示している
人間とは何か、人間と人間以外との関係はどうなのか、について「神訓」第八条、第九条、第十一条に基づいて説明しましたが、これらの箇条は一つの理法を角度を変えて述べているのです。
初代教長橋本郷見先生は、著書「神訓解説」の総論の中で「この二十一箇条は、それぞれ個々のもの
ではなく(中略)二十一箇条全部で一つになっている」そして「全体をまとめた意味は第一条に示されている」と述べておられます。さらに第十一条に関しては「人間の根本を示してあるもので、これが二十一箇条の中心となっている」と書いておられます。
したがって「人間とは何か」という問いに対しては、第十一条に示されているように「神の表現である」という答になるのですが、人間は、人間以外のものとは別々な存在ではなく、一体活動をしているのです。
人間が、自分を高度に成長させよう、心を浄化しよう、目の前に現れてくる苦痛や困難を解決しようとするとき、自分自身の心の状態がどうあるのか、自分で自分の心を客観しようとしますが、これは大変に難しいことです。
しかし、自分の環境に現れている状態は、前述の「神訓」第九条と、第十条、「世は鏡ひとは鏡子は鏡である」に示されているように、自分の周囲の状態を冷静に客観することによって、自分の有りのま
まの姿を発見することができるのです。
周囲の環境(他人の言動も含めて)は、その時その時の自分の心の有りのままを教えている、いや、教えているなどと自分と周囲とを分けて二元論的に考えるのは間違いで、周囲の環境の状態は自分そのものである、ということなのです。
環境に現れている状態からその時その時の自分の心の有りのままを知ることは容易ではないかも知れません。正確に知ることができる場合もありますが、何時でも具体的に正しく知ることは現実の問題として困難です。
このようなとき自然社では、教祖が現された「みおしえ」の神事によって、宇宙に顕れた一切のものの、その時そのときの状態のもつ意味を教示しています。この「みおしえ」によって、自分の生き方の方途を知ってこれを決めていくことができるのです。
五、神のみいのちの現れ
私たちが神の表現として、人間らしい幸福な生活を送るには、神の御心を知って、天地の理法に従っ
た生き方をすることです。それには自分の周囲の状態を客観し、自分の有りのままを発見していくことです。
最後に自然社教典にある「祈念の詞」の一節を引用して結論とします。
神は宇宙万象を成り立たせ続けて 休むことのない 生命力であるはたらきである
そのみいのちは森羅万象と現れはたらいて 自分はその中に生み出されている神のみいのちの現れである
自分はこの神の御心によって現され生かされている神わざであることを知って
迷うことなくゆるぐことなく御心のままに日日を喜んで生活していく心になってれば
必要なことはすべて恵まれてくる