今月の言葉 > 自然誌 文章から > 平成17年 8月号 特集 自然社の教え

「みおしえ」さながらな心で生きていく
橋本弘和

  神慮にかなう生き方を
 自然社の教祖金田徳光先生は、厳しい修行の末、宇宙生成の原理を発見されました。これは「神訓」として、自然社の信仰をする人たちの目指す道標となっています。
 人がこの世の中の道理にかなった心で生きていくところに幸福が現れ、この道理から外れた心で生きていると、うまくいかないことが次々に起きてきます。病気、けが、事故、もめ事、商売の失敗と色々なことが、肉体的精神的苦痛として現れてくるわけです。
 本来なら人は神慮(神様のお心、みはからい)にかなう生き方をしていれば、このような苦痛は現れてこないはずです。しかし人は皆、大なり小なり苦痛を抱えて生きています。
 色々な問題が人を苦しめ困らせます。できること


なら苦痛は避けて通りたいものです。神様は神慮から外れた心で生きている人に罰を与えるために色々な苦痛を与えているのでしょうか。答えはノーです。神様は人を苦しめたり困らせるだけのことはなさるはずがありません。
   「みしらせ」
 では自分の身に起きてくる様々な苦痛には、どのような意味があるのでしょうか。
 苦痛は、人間が神慮から外れた心で生活していることを自覚させるための恵みなのです。
 もし人が、人間らしい自然な心からずれた心で生きていることに気付かないまま生活を続けていたら、一体活動を続けているこの世の中から取り残されてしまうことになります。
 このままの心持ちでいったら(このままの生き方を続けていたら)自分のためにも世の中のためにも、人間として十分なはたらきをすることはできないし、ときには自分の身にも周りにも迷惑になっていきます。
 孤立化した人間に、本当の意味での幸せが訪れる


はずはありません。そうなってしまう前に神慮からずれ始めていることを知らせてくれるために苦痛が現れるのです。
 ですから目先の痛みや悩みに心を奪われることなく、苦痛が持つ本当の意味を知っていくことが、幸福への第一歩となります。
 自然社では、私たちの身の上に起こってくる様々な苦痛を「神様が私たちの心の偏りを教えてくださっているサイン」であるという意味で「みしらせ」と言います。
   軌道修正
 教祖が神訓に表されたこの世の中の道理に照らして、自分の心はどこがどうずれているのか。自分で自分のありのままの心を知っていくことができれば全ての苦痛に対して自分で心のありようを軌道修正することができます。しかしこのようなことができる人はなく、ほとんどの人は苦痛に悩み苦しんでいます。
 教祖は、世の中の道理を神訓として表されました。(神訓の項を参照)この神訓に添った生き方をし


ていれば人は自ずから幸せに導かれるのですが、神訓の中身を理屈としては分かっていても、なかなかその通りには生きられないものです。
 教祖は神訓を現表されると共に、世の悩み苦しむ人を救っていきたいとの願いから、人の身の上に現れている苦痛はどのような神慮を伝えるものかを神様と感応して授かり、それを取り次ぐ神事を行うことを許されました。それが「みおしえ」です。
 神訓に表されたこの世の道理を知って、その通りを生きていけば人は幸せに生きていけるのですが、「神訓の通り」という目標に到達するには、「自分は今どこにいるのか」を知る必要があります。それが分かってこそ出発点が定まり、目標への道筋が開かれます。
 自分は今どこにいるのか(自分はどんな心で生きているのか)を教えていただくのが、「みおしえ」です。「みおしえ」は、私たちの身の上に現れた苦痛(「みしらせ」)が示している神慮を、文章にして私たちにお取り次ぎくださる神事です。
「みおしえ」で苦痛の原因となった心の偏りのあり


のままや、今後目指すべき心の方向を教わります。そして、その心が日常生活の中で表れている実際をはっきり知ることによって、自分の生き方が自然と変わっていきます。
   自発的にお願いする
「みおしえ」は、信徒が自発的にお願いすれば下付されます。お願いするには、身の上に現れた苦痛は神慮を伝える「みしらせ」である、とはっきり自覚することが第一歩です。
 そして、その苦痛が指し示すところが、どこにあるのかを是非教えていただきたい、そして「教えていただいたら一心にその実行に励みます」と誓えば、「みおしえ」の神事を行っていただくことができるのです。
「みおしえ」は、信徒が幸福になるようにという神様の慈愛によって下付されるものですから、どのように難しいと思える内容でも、決意をしたら必ず実行していけます。
 私たちが一心に求めて授かるのが「みおしえ」です。頂いたら文字通り教えられた通りの心になり切


りましょう。それでこそ神慮の真意を分からせていただけるのです。
「みおしえ」は、教祖が神様からお許しをいただいて私たちに取り次いでくださったものですから、「試しに頂いてみる」ことはできません。
「みおしえ」は自然社によって信仰して、心を浄めて世のため人のために尽くし、人としての完成を目指すと決意して入教した人にだけ下付されます。これは、形ある世界に生きる者として、自分の決意を教祖にご覧いただくということです。
   自然な心で生きるために
 私たちが「みおしえ」を頂いて神慮に添った生き方ができたら様々な苦痛(「みしらせ」)は、どうなっていくのでしょう。
「みしらせ」は、神様が私たちに「気付いて、生き方を変えていくべきところ」を知らせるために現された恵みですから、私たちが「みおしえ」をしっかり受け止め、その心になり切ったら、「みしらせ」が自分の身に存在する意味はなくなり、苦痛が解決に向かっていくのが世の中の道理です。


 このように書きますと、苦痛から脱け出すために「みおしえ」を頂こうという、本末転倒した考え方に陥ることがあります。
 改めて申し上げますが、「みおしえ」は、一人ひとりの心が神慮とどのようにずれているかを示していただくものであり、今後どのような心で生きていけばよいのかをお教えいただくものです。「みおしえ」は、人が自然な心で生きる姿を取り戻すためにあるのです。
 苦痛の解決は、その自然な心で生きる姿を取り戻したところに現れる神様の恵みであるということを忘れてはなりません。
 結果は同じようですが、苦痛を解決してもらうために「みおしえ」を頂いて実行するというのは、神様と取り引きをしているようなもので、信仰とはかけ離れたものなのです。




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