今月の言葉 > 自然誌 文章から > 平成17年 8月号 特集 自然社の教え
「神訓」神様が下さった地図
橋本研二
近所の道を車で走っていると、対向車の運転手がまぶしそうにしていました。西日が対向車の正面から照りつけているのでした。しばらく走っていると前方からまぶしい光が差し込んできました。いつの間にか太陽が正面に来ているのです。
地図を見るとこの辺りは丸い半島のような地形で、海岸に沿った道はゆるいカーブが続いて最終的に180度向きが変わり、東を向いていた車が西を向くのです。
街を歩き道を走り、実際に色々な所に行っても、分からないことがたくさんあります。距離や方角、他の場所との関係など地図を見てはじめて把握できます。地図では全体を見ることができるからです。頭の中にも一応地図はあるのですが、実に漠然としていい加減で、記憶違いも少なくありません。何度行っても間違えることもあるのですから、初めての
所に行くとき地図は必需品です。
幸せになってほしい
人生の行路は現実の道よりもっと複雑です。初めての経験に戸惑い、よかれと思って突き進んでは失敗し、同じ過ちを繰り返したり、途方に暮れることもしばしばです。
教祖はそんな迷い苦しむ人たちに、なんとか幸せになってほしいと強く願われました。そこでひたすら修行を重ねて、世の中とは何か、人はどう生きればよいのかを求め続けて、「神訓」を授かられました。
神訓はいわば神様が下さった地図です。私たちの住む世界を高い所からとらえて、道に迷ったり、目標を見失ったとき、世の中はこうなっている、こうすれば幸せになっていけると示してくださっているのです。
神訓は教祖個人の経験を元に悟られたものではなく、苦しんでいる人々を救いたいという深い慈愛の心をもって修行される中で、宇宙の根元の神につながる高い神霊と通じるようになり、それによってこ
の世(宇宙)をあるがままに見て表されたものです。
ご自分の体験から、世の中とはこういうものだ、人間はこう生きれば幸福になると教えておられるのではありません。どんな偉い人でもすべてを体験することはできません。したがってそこから述べられる人生観には偏りが生じ、万人の道標にはなり得ないのです。
もし「自分が悟りたい。人の知らないことを知りたい」という思いがあったら、高い神様と通じることはできなかったでしょう。神訓という「地図」を私たちが手にしているのは、教祖の慈愛によってであり、人を幸福に導こうとの神様の御心によってなのです。
『神訓解説』
神訓は二十一箇条で成り立っています。第一条と第二条は神について表され、第三条から第十条は世の中について、第十一条は人間とは何か、そして第十二条から第二十一条は人間の生き方について表されています。
一読しておおよその意味が分かると思える箇条もありますが、あまりに深遠で容易にその意味が分からない箇条もあります。簡単に分かると思える箇条も、その奥は無限に深いものがありますので、分かった気になるのは禁物です。また難しいと思える箇条も、決して理解できないものではありません。
『神訓解説』は一つひとつの箇条について、どうすればこれが身に付くかという視点から書かれていますので、何度も読み返して理解を深めていただきたい本です。
実感すること
さて、地図を見たからと言って目的地への行き方が身に付いたわけではありません。実際に道を歩き、目的地に着かなければ本当には分からないのです。そして一度行ったから覚えられるとも限りません。何度も行く間に街の様子が頭に入り、地図と実際の道筋がよく分かるようになるのです。
これと同じで、神訓を覚えただけではまだ何の役にも立っていません。生活の中で神訓の通りであることを実感することが大切です。何度もそれを重ね
ていくことで、世の中とはどういうものか、人はどう生きれば幸せになっていけるのかを把握できるのです。
例えば、第十条「世は鏡 ひとは鏡 子は鏡である」について。この神訓は多くの信徒が覚えています。だからと言って皆この神訓が分かっているかと言うと、決してそうではありません。その入り口に立ったばかりという人が大半かもしれません。
夫(妻)が対立的だとか、子供が言うことを聞かないとか、先輩や同僚が自分を困らせるというようなとき、これは「鏡」だと悟って自分を振り返る人はそんなにありません。
不満を思い続け、打開策を講じてもうまくいかず、悩み続けた末に「鏡かもしれない」と振り返る、そして自分の我がままに気が付いて、自分が変わらなくてはと腹をくくる、そうすると相手も少し変わってくる。やがて自分の生き方が変わり、そして、周囲の人の態度も変わった…。
このような体験を重ねることで「鏡」ということが分かってくるのです。現実の問題にぶつかって、
体験してはじめて神訓が分かってくるのです。
「自然の光」
しかし、神訓を知らないのでは、右の体験すらできません。「鏡」という真理を知らなければ、人を責め続けるばかりで、一層こじれていくしかありません。要は、神訓を言葉で知った上で、それをどう実生活に生かしていくかということです。
地図を家に置いてきたのでは、迷った時に助けにならないように、問題に遭遇した時に教えの道理が思い浮かばず、右往左往していたのでは、宝の持ち腐れです。
教堂で毎朝行われている浄心行で「自然の光」を奏上するのは、神訓という宝を生かすためです。神訓を「唱え言葉」にしたものが「自然の光」ですから、必要な時には神訓が思い浮かんでくるように、毎朝「自然の光」を唱えて心に神訓を刻み込みましょう。
「みおしえ」で
地図を持っていても、自分の居場所が分からなければ地図を生かせません。同じように、神訓を知り
世の中のことを理解したとしても、自分がどんな人間であるかを知らなければ、教えを生かすことはできません。
自然社では「みおしえ」で、自分がどんな人間であるかを個々に教えていただきます。自分の居場所と向かうべき方向を教わるのは、自動車のナビゲーションシステムと同じです。
地図も持たずに試行錯誤する人たちの中で、私たちは画期的なナビゲーションシステムを携えて人生を進んでいけるのです。しかし、使わなければ持たないのと同じです。
神訓によって世の中の成り立ちや、人として歩んでいくべき方向を知り、「みおしえ」によって自分というものを教えていただいて、人間完成への道を確実に歩んでいくのが、自然社の信仰の大筋です。
教祖の願いである、人としての本当の幸せの実現に向かって信仰をしましょう。