今月の言葉 > 自然誌 文章から > 平成17年 8月号 特集 自然社の教え
皇大神様・・・
田村國光
皇大神様(この世のすべては神のみいのちの現れ)
神様ってどんな方
私たちが信仰しているとき、あるいはこれから信仰を始めようとするとき、自分は何を信仰しているのか、自分が信仰している神様はどのような方かということは、信仰の根幹をなす極めて大切な事柄です。
それは、信仰の方向を間違えないで進んでいくためには、神様についてちゃんとした考え(神観)を知ることが根本となるからです。
宗教によってはこの世界は神によって「無から造られた」すなわち神はこの天地を創造された唯一絶対の存在であり、それ以外に神はない、とする教えもあります。
また人間の力を超えた様々な自然現象を神様とし
て祀ったり、商売の神、勉強の神など、人間の特定な能力に力を与えてくださる神様や、生前中に素晴らしい働きをなさった方が亡くなられて祀られた神様もあります。
それでは自然社ではどのような神様をお祀りして、信仰しているのでしょう。
その答えの前に、人間とは何か、この世の中(世界)とは何か、ということからまず考えてみたいと思います。
◎
人がこの世に人間として生きているのは、自分で求めてそうなったのではありません。自分で人間になろうと思って人間になったのではなく、気が付いたら人間だったのです。
ところが、人には「これが自分である」という意識があり、自分の判断で生き方を決めることができるので、知らず知らずのうちに、この世の中が自分を中心に回っているかのような錯覚に陥ってしまいがちです。
しかし自分の後から次々と人間が生まれてくるの
を見ても分かるように、世界というものがすでに存在していて、そこに本人の意志とは関係なく新たに人間が現れてくる(生まれてくる)のです。
では人間が生まれてくる以前から存在しているこの世界とはどのようなものでしょう。唯一の神が無から創造されたものなのでしょうか。あるいは、いつ生じたものでもなく、いつ無くなってしまうものでもない「不生不滅」の存在なのでしょうか。
「自然社教典」の中にある「祈念の詞」に、
「世の中に生起している一切は、神なるいのちの現れである。一切は根元を同じゅうして現れている一つの生命体である。故に一体として活動をつづけて休むことのない、神なるはたらきの態である」とあります。
「一体活動」
これはこの世の中に現れている人間も含めた森羅万象の全ては「神なるいのちの現れ」であり、それは個々独立してあるのではなく、他との関連をもって、すべてのものがお互いに関係し合って、全体で「一つ」のはたらきを成り立たせているということ
です。
この世界は、神によって創造されたものではなく、この世に現れたすべてのものは神様自体の活動が、様々なすがたをとって現れているのです。そしてこの世界は根元を同じくして現れている「ひとつの生命体」であるということです。この世に現れた人間も植物も鉱物も動物も、それぞれは別々の存在に見えていても、それらは全部で「ひとつ」の活動をしているということです。これを自然社では「一体活動」と言います。
「神訓」の第一条に「かみは宇宙の根元である萬象は一體と知れ」とありますが、これはこのような意味なのです。
世の中には多くの神様がありますが、それらの神は個々に力を持って独立したはたらきをしておられるのではなく、ひとつに統一された一体活動をしておられるのです。
「かみはむすびである」
「神訓」の第二条に「かみはむすびである」とあります。「むすび」というのは、生み出す神霊という
意味で、森羅万象を生み出していく霊妙な力という意味です。さらに生み出していくだけでなくそれを「一体活動」として育て太らせているのです。
このように一切を生み出し、育て太らせ、大調和の状態にあらしめる神の「むすび」が「神なるはたらき」であり、森羅万象のすべては「神なるいのちの現れ」です。
この「神なるはたらき」は人間にとって単なる「はたらき」ではなく「恵み」でもあります。「神なるはたらき」には恵みと恵みではないものとがあるのではなく一切が恵みなのです。この世界のすべてのもの、自然現象も動植物も鉱物も、形の有る無しを問わず、「神なるはたらき」の現れ、すなわち恵みでないものは何一つないのです。人間は常に神の恵みを頂き続けているのです。
物を粗末にする人はこの真理を知らないのです。私たちはこの恵みを生活の中で実感し、神の恵みを頂いていく心に目覚めるよう日々心掛けていきましょう。
では、人間ってなに?
神様のことを述べてきましたが、では人間とは何でしょう。この世界は「神なるいのちの現れ」であると述べましたが、人間は、この世界をどう動かしていくか、というはたらきをするために、神様のみはたらきとして現れているのです。(神訓第八条、第十一条)
人間は本来、自分自身のために生きているのではなく、神様の表現としてこの世をより良い方向に導くために現されているのです。
そのため人間にとって、みんながお互いにより良く生きられるよう働きかけていく「一体和の実現」に向かうよう真剣に祈っていくことが何より大事なことで、その祈りは必ず神様に通じます。
人間が人間以外のものと異なっているのは知的に優れているという能力の差ではなく、人間にしかできない「はたらき」をするために現れているところにあります。人間はこの形ある世界の中核にあるということです。
従って自然社の神観は、神はあらゆるものに宿っており、あらゆるものに神がおられるとする汎神論
とは違います。
色々と説明しましたが、これを頭で理解することを信仰とは言いません。神様を分かって信仰を深めるには、神様を身近な存在として心に感じられるよう、日々の勉強や仕事や生活に祈りをもっていくことです。
皇大神様
自然社の教祖、金田徳光先生は宇宙の根元の神様である大元霊をお祀りするお社を建立することを念願しておられました。自然社の初代教長橋本郷見先生は教祖のお心を継いで、宇宙の大元霊にご鎮座いただく自然社本宮を紀伊山地の高野町花坂に建立されました。
自然社ではこの大元霊を尊称して皇大神様と申し上げています。
自然社は、教祖が発見された世界一体和の理法を生活の中に実証することを布教活動としています。世界一体和の実現は皇大神様の神慮なのです。
自然社で信仰する私たちは、本宮で、またその御分霊をお祀りしている全国の教堂で、世界の平和と
国家の安泰と人々の救いを祈願し、日々の生活の中で少しでも周囲のために尽くすことを通して、皇大神様のお心である世界一体和に向かって精進を続けています。