今月の言葉 > 自然誌 文章から > 平成17年 2月号 真理の展望

「永久磁石」になりましょう
湯本光一

「人はみな幸せになりたいと願っているのに、なぜ不幸な人が後を絶たないのだろうか。その原因を解明して世の中の人を救いたい」との人を思う深い慈愛から、教祖様は数十年にわたり「行」をされました。
 その結果、皇大神様の神恵により世の中の道理を発見悟得され「幸せになりたいとの願いとは裏腹に、実際にはまるで幸せにはなりたくないと思っているかのように、正反対の生き方をしている人が多い」ことに気付かれ、これをもって「人は逆立ちして歩いている」と表現されました。
 世の中に現れた事にはすべて何らかの原因があり、当たり前のこととして起きているに過ぎない。しかし、その原因が分からないため偶然や奇跡があるかのように錯覚している。一人ひとりの身の上に起きてきた事の原因を解き明かし、その原因を取り除


くことによって、結果は自ずと解決することをもって世の人々を救うことに、教祖様は生涯を捧げられました。
 それは、例えばニュートンが万有引力の法則を発見解明したことに似て、有史以来元々世の中に厳然として変わらず存在する道理を、教祖様は発見し悟られたということであって、個人の体験等に基づく人生観や処世訓の類とは全く異なるものです。
 従って、何人たりとも万有引力の法則から逃れて生活できないように、世の中の道理を知っているか否かにかかわらず、人はこの道理の通りに生きているのであって、また道理から逃れることもできないのです。
 教祖様が残されたこの世の中の道理は、そのまま現在の「神訓」に基づく「教え」として説かれているのですから、この意味では、地球上の全人間は自然社の信徒であると言えます。ただ教えに触れて道理を知り得た人と、そうでない人との違いがあるだけです。
 世の中の道理を知らないばかりに、人間としての


悩みや苦しみから脱する方法がわからず、不幸に陥っている人々に、何とかして「教え」を伝えて、根本的に解決していくようにしてさしあげたいものです。
 これは、いち早く「教え」に触れ、少しでも体得された人にとっては、何にもまして大切な使命であり、また救いを頂いたことに対する最大の報恩の行為となります。「教え」に触れた時期の違いや体得の深さ、心境の違い等はあっても、自分の体験を通して得た感動は人に伝えられるはずです。
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 ここに「教えを横に拡げる」ための根本精神が見い出せます。そして、自分が教えによって体験した感動と喜びと感謝の思いを、どうにかしてまだ教えを知らない周囲の人に伝えたいとの思いが大切になりますが、問題は数多くそうした体験を積むにはどうしたら良いかということです。
 自分の体験による感動に基づく教えの体得を抜きにしては、単なる知識の切り売りとなってしまって、周囲の人の心は打たないことでしょう。


 そこで、自分のこれまでの信仰歴や、今の信仰の状態を振り返ることが大切になってきます。「教え」に触れてから、終始一貫して信仰を深めることに邁進している方もおられるでしょう。
 しかし、信仰が長くなるにつれて熱が冷めていったり、苦痛となる「みしらせ」を頂いた時だけ電流に打たれたようにビリッとなり、ふだんはだらりとしているといった「電気ショック信仰」になっているかもしれません。
 また「教え」を分かったつもりになってしまって、「教え」を求める気持ちがいつの間にか薄れて、信仰が停滞している時もあるでしょう。
 このように、むらがある状態では信仰はなかなか深まらず、入教当初の体験による感動が薄れてくると、人に伝える言葉に力がなくなり、信念や自信が失われてしまうかもしれません。
 例えて言えば、一時的な磁力を発する電気磁石ではなく、電流を切っても磁力を持続する「永久磁石信仰」にして、信仰による体験を積んでいくことが大切だと思います。


 信徒手帳に書かれている決まり事を、実践しているかどうかを省みることも、具体的に信仰状態を知る手掛りになると思います。
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「教えを横に拡げるには、自分が出来ていなければ恥ずかしいからなぁ」との教祖様のお言葉を頂いています。このお言葉をもって「教えを実践し体得するに至るには限りがなく、終わりがないのだから、これではいつまでたっても教えを伝えられる自分にはなり得ない」と考えるのは早計です。
 このお言葉は、心境や人格を問われているのではなく、個々の信仰状態を問われているのだと思います。基本を大切にして、決められた事やするべき事をやっているか否かを言われているのではないでしょうか。
 ではどうしたら「恥ずかしくない自分になれるのか」と言えば、やはり教えを横に拡げるための具体的な行動を起こす前に、まず自分の信仰を深めることに尽きると思います。教えを体得するについては、


 心もてこころに教へ身をもちて身に習はせよ神の教は
という教祖様のお歌があります。
 信仰は真心をもって行うものであり、「みおしえ」や教話で教えていただいたことを、素直に白紙の心で受け入れ、体を使って実践体験し、それを続けていくことによって、自然と身に付いていくものです。
 具体的には何をすれば良いのでしょうか。それは人間が本来あるべき姿である「さながらなる心」を目指す人たちが集い、心を浄める「行」として教堂で毎日行われている「浄心行」に参拝することです。
 これが日常の信仰の根本となります。教えを本当に身に頂いていこうとするならば、やはり一回でも多く浄心行に参拝することです。
 教話や他の人の体験談を生で聴き、宗教的情操に身を浸すことによって、全身に暮らしの中で教えを実践する元気を頂いたり、日々目標を新たにすることができます。


 これは当たり前すぎるくらいの精進ではありますが、これが信仰の基礎をがっちり固めてくれるのです。これを日々やっていくには、まず浄心行や式典の時間に合わせて、教堂へ自分の身を運ぶ努力を必要とします。しかし、これを続けることによって「電気ショック信仰」ではない「永久磁石信仰」を自分のものとすることができます。
 その実例は自然社のどの教堂にもあります。うまずたゆまず毎朝参拝を続けて、自分の気持ちも生き方も、家庭環境も、周りとの信頼関係も良くなって、これが本来の生活であるといった感じで幸せに日々を送っている方が。
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この意味で、教堂までの距離や、家庭や体の事情によって、個人差があるものの、これまで教堂参拝が年に一回の人は二回、五十回の人は百回、百回の人は二百回を目指すというように、今年から参拝を倍増させることが目標として掲げられ、五年間これを貫き通すことになりました。
 またその一助となり、信仰の実践の足跡が一目で


分かるように、一年三六五日が記載された「信仰実践カード」が全信徒に配布されました。この「信仰実践カード」を大切に自分の実践の足跡を残すことが、自然社を担う人となり、教えを横に拡げられる人になるという自覚を深める第一歩となります。 体を使って体に習わせるため自分も教堂参拝を倍増すると心に決めましょう。そして教えのままに生きて、教えを周囲に伝えていける人になる、という目標をはっきり心に持って、今年の信仰精進を進めましょう。




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