今月の言葉 > 自然誌 文章から > 平成15年 6月号
そのままでいいんだ
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インターネットで「仲間」を募って若い男女が一つ所で死ぬという事件が相次いで起きています。
三年ほど前に中年の事業経営者が三人、ホテルの一室で心中して世間を驚かせましたが、今度はインターネットで死を呼びかけるという時代性と、連鎖的に起きたこととで、人々の耳目を集めました。
自殺は絶対にしてはならないことです。
自然社では、 人間の本体は肉体ではなく霊魂であるという観点に立って、人間がこの世に生まれこの世で生活をしている意義を解明しています。
そして、人間の本体である霊魂が肉体に依ってこの世での生活をしている、それが人間である。
霊魂は肉体による生活を通して苦しみや喜びを味わい、それらの体験を通して霊魂自らの存在と、そのありようを知り、自分は何を喜び何を恐れるかなど自分の心のありようを知り、その傾向に気付いて行くことができる。
そして、生活の中で起こってくる一切の事柄は、自分のありようを知るための機会であると知って、目の前に現われたことに全力を尽くしていくことによって、霊魂は自らのありようを知ることになり、そこから人間とは何かという、自覚への道が開けてくる。
霊魂がこの人間自覚への精進にひたむきになり人間とは何かを知っていくことこそが、人間生活の真の意義である。としています。
苦しみも、喜びも、「自分とは何か」ということを知るために現わされたものであって、悩んだり行
き詰まったりしたのは、自分の生き方をここで改めて検証し、より良い生き方を探り、自分の足でしっかり生きていく足がかりを得るために現われてきたのです。
自殺は、このように尊い人間としてこの世に存在する意義を知らないまま、絶望を抱いて死んでいくということです。
そして、悩みや、絶望や、暗い気持ちをいだく原因となった、自分が本当には気付いていない自分自身の未だ救われていない心は、肉体が死滅した後もそのまま存在し続け、生前持っていた悩みや苦しみも、悩みや苦しみを感じる元となった自分の心の様々なありようも、抱え続けていくことになります。
苦悩から逃れようとして、最後の手段と思って自殺を決行したとしても、その唯一の目的であり、そこにだけ安らぎがあると思ってこの世から決別した
のに、「苦悩から逃れる」という願いは成就されないのです。
自殺をしても苦しみの解決のためにはなんにもならないのです。
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こんなことを申し上げるのは、心中なんか決してしてはならない、絶対にやめてほしいと思うからです。
自殺をしたいと思っている人は、自殺なんか本当はしたくないのに、自殺するしかないと悩み続けて、そのあげくに最後の扉を開けてしまったのだと思います。
自殺したいと思っている時は、真剣に人生を考えているようで実際は現実から目をそらしています。仲間を募って一人では越えられない線を越えようと
している時は、一人で考えている時より、もっと現実から目を背けることになっていないでしょうか。
この悩みからは自殺することでしか解放されないとか、こんなつまらない自分は生きている価値がないとか、思いをめぐらし続けて、日に日に心が暗くなっていくという日々を過ごしたことが、私にもありました。
仕事に行き詰まり、自分のふがいなさに耐えられなくて、人と顔を会わせることもできず閉じこもっていました。
そんな所を少し抜けてなんとか日常生活ができるようになっても、自分に前途はないという思いが胸をふさぎ、何をしていてもその刹那をそうして過ごしているだけで、その向こうに何も待っているわけではない…、そんな思いを持ち続けていました。
二十歳を過ぎたころのことでした。ある日の夕方、仕事を終えて町に出ました。薬局を探して町の中心を南から北へ、数キロを行きつ戻りつしました。
目抜き通りなのに薬局は案外少ないことを初めて知りました。どの店も九時ごろまで開いていました。
しかし、薬局の前を通る時は自然に車道に近い側に寄っていました。店の中をのぞくことさえできない自分を、意気地がないと責めましたが、本当に自分を責めていたのかどうか、そんな甘い精神状態だったと思います。こんなことを二度繰り返しました。
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そんな時、交通事故を起こして大きなお店の主人にけがを負わせてしまいました。
どうしてよいのか分からない気持ちの混乱が収まった時、不思議な落ち着きが訪れました。あの方が回復されて事故の補償が済むまで一生懸命尽くそう。そんな思いが自分で自分の気持ちをどうにもできなかった私に、一つの方向を与えてくれたのかもしれません。
はねた相手の人が懐の深い人で、少しも嫌みなことを言われないばかりか、こちらを気遣ってくださったことも心が安らぐことに力となったのかもしれません。また、だらしない上に事故まで起こした私を、親や兄弟が責めることがあまりなかったことも大きな助けになっていたと思います。
しかし、私は事故の後始末が済んだら今度こそ…、と思っていました。
秋が深まったある日、ボトルを持って近郊で一番高い山に登りました。何度も登って道は知っていま
す。その裏山に入り込んでヤブが深くて道に迷ったことがありました。あの山奥でウイスキーをあおれば…。
頂上の神社に着いて、お山を汚すことをお許しくださいと祈りました。するとどうしても足が裏山に向かいません。また怖じ気づいてしまったと思いましたが、そればかりでもなかったように思います。
神社の方が勤めを終えて下山するため社殿から出てこられました。背広にネクタイを締めてボトルを携えている私を怪訝そうにしておられましたが、何も言われません。そうと察して普通に話してくださったのでしょう。
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後々になって「みおしえ」によって、先祖の中に自殺をしている人がいることを知りました。両親か
ら聞いた話から、私が生まれた年にそうやって亡くなった人があると分かりました。初めはその人のことかと思いましたが、この人も先祖からの因縁を受けて亡くなっておられる一人だと思います。
私の中に、苦しくなったらそこから逃れたいと思い、ときには自殺をしようと思ってしまうものが色濃く伝わっているのです。
そんな私が自殺を思うことをやめられたのは、胸にたまっていた思いをある人に全部打ち明けて話せたことからでした。
そんな話ができたことが私には驚きでした。話を全部聞いた上で、「情けないものをいっぱい抱えている、そのままの自分でいいんだ」と言われました。「そうだったのか」と、胸に支えていたものがおりていくのを感じました。
そして、「それだけではなかった」と思ったのは
よほど後になってからのことでした。
父や母から時折はつらいことも言われましたが、その陰で一心に祈ってくれていたに違いないと気が付いたのです。そんな言葉を聞いたことはありませんでしたが、そうだったに違いありません。
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死にたいと思い詰めることと、死への扉を開けてしまうこととの間には、大きな違いがあると思います。思い詰めたあげくに、出してはならない一歩を踏み出してしまうのは、今の自分と同じように苦しみ続けて、「救われたい」とすがる思いで頼ってきた、自分によく似た心を持った霊たちに引きずり込まれてしまうからではないかと私は思っています。
世の中の平安を思い、家族の幸せを願って毎日祈っている両親の信仰が、そうした迷いに陥っている
私を押しとどめてくれた。家族の信仰心によって、心がふらふらしていた私は救われたのだと思っています。
どうにもならないと思える現実に遮られる時もあるでしょうが、苦しんでいる者がいつか立ち直ることを祈っていてくれている家族や友人、それに常に見守ってくれている先祖の御霊があるのです。それを思うとますます負担に感じるかもしれませんが、そこまで自分を責めるのは酷というものです。
自分は本当は苦境から救われたいと願っているのであるということを思い出せば、先祖の御霊たちの導きや、周りの人の祈りや助力を頂きたいという素直な気持ちに立ち返れるはずです。
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迷い、落ち込んだままで、誤った方向に踏み出させられることのないよう、「祈り」ということを思
い出してほしい。
苦しい思いを聞いてくれる人はだれの周りにもいます。話そうという気持ちになれば本気で聞いてくれる人を見つけられます。そうやって優しい光を自分に当てる。
貧しく弱い心のままでいい。その自分が周りのためにできるだけのことをやっていこうというささやかな願いを持つ。
「独りぼっち」という殻を精一杯の勇気をもって打ち破り、みんなの元に戻りましょう。
「仲間」とは一緒に生きていく人のことなのです。