今月の言葉 > 自然誌 文章から > 平成14年12月号 

気を使う
−・−

 気をつかいすぎるのは自分を
 よく見せたい心があるからである

 私は「何事にも気を使い過ぎている」という「みおしえ」をよく頂きます。

 日常生活で他に対してある程度の気遣いが必要なのは当然でありますから、私としてはあくまでいらぬ気遣いではなく、要る気遣いをしていると思っていたので、気を使い過ぎていると教えられても、自分のことながら果たして何に対して、どのように使い過ぎているのか分からないことが多いのです。

 しかし「物事を気にしながら我慢して過ごさず、心に思うことは相手にあっさり言います」とも教えていただいているので、多分、私は周りに対して人


よりいらぬ気遣いをしているのだろうと思います。そのことに少し気付かされる出来事に出会いました。

 先日、所要で新幹線に乗った時のことでした。乗る前に指定席券を取りましたら、A席の切符をくれました。ご存じの通り、新幹線の普通車両には一列に三人掛けと二人掛けの座席があって、A席は三人掛けの窓際の座席になります。

 窓際の切符を手にした瞬間、有り難いというよりも何か閉じ込められるような不自由さを感じたのでした。そして、座席に着いたとたんにその予感が的中してしまったのです。私の座る隣の座席には、親娘と見受けられる二人の女性が座られ、しかも若い方の女性は赤ちゃんを連れておられたのでした。

 二人の女性は座席に着くなり、赤ちゃんのお世話のために荷物をいっぱい広げられました。赤ちゃん連れの旅行の大変さはよくわかりますので、こちら


もある程度は辛抱しなければならないとそのとき覚悟しました。

 しかし、この人たちの目的地はどこだろうか、下手をすると最後まで座席から立つことさえできないかも知れないなと思えました。そして実際にその人たちは終着駅まで一緒でしたから、恐れていた通りになりかかったのでした。

 赤ちゃんは幼児に近い大きさで、お菓子をねだったり、おもちゃを欲しがったり、子供らしく率直な自己主張をしてはお母さんたちを困らせています。私はそのようなうるささも感じられましたが、時間が経つに従ってしだいに尿意を催してきて、それのほうが困ることになりました。

 座席を自由に立って行くことがはばかられる状態にありますと、たったそんなことがとても気になってくるのです。下車するまでの時間はまだまだですし、本を読んでいても気持ちを落ち着けて読むこと


もできません。

 しばらくどうしたものかと迷っていました。そのような自分自身の姿にはたと気づいたとき、愕然とさせられたのです。

 私という人間はこのようなつまらないことにも気を使っているのだと。

 赤ちゃんを連れた親娘は、私をことさらに困らせようとしているわけではない、いやむしろ赤ちゃんのことで迷惑をかけまいとして私に気が咎めているだろう。私が席を立つようなことがあれば、荷物を広げていることに対して恐縮の意を示されるに違いない。

 私も生理現象なのだから仕方がないことで、たとえ相手に迷惑がかかるとしても、それはお互い承知の上で座席に着いたのだから、私の思いなどはそれこそ余計な、要らぬ気遣いに違いない。きっとふだ


んもこのような具合に、私は相手の気持ちをあたかも思いやっているような格好をしながら、色々なことに気を使っているのだろうと分かりました。

 この気遣いの元になっているのはまさしく「みおしえ」で指摘されているように、他の人に悪く思われたくないという心が下敷きにあるのだと気付かされたのでした。

 今までの私をあらためて振り返ってみますと、気を使い過ぎて遠慮や我慢をしてみたり、そのためにした失敗のために、自分で自分が嫌になったことも思い出されたのでした。

 ついでに新幹線の話の続きをしますと、私は以上のような自分の気持ちに気付いて、ここは要らぬ遠慮をせずに、あっさりと言って通していただきましょうと、まさに腰を浮かしかけた時でした。

 まるで私の気持ちを察知したかのように、若い方


のご婦人が自分の目の前の荷物をさっさと片付け始められたのです。使用しない物はカバンの中に、そして弁当のからなど不要な物を捨てに座席を立たれたのです。それを機に私は難なく通していただけたのでした。




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