今月の言葉 > 自然誌 文章から > 平成14年 7月号 

おはぎ
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 明くる日になると少しかたくなって、周りのアンコが白くなってしまう、うちで作るのはそんなおはぎだった。

 おやつどころか、食糧自体がまだまだ乏しい時代だったが、雪国の山里の伯父たちが、田んぼや畑で取れた色々なものを折に触れては送ってくれていたことを、後々になって兄から聞いた。

 そんな中にもち米もあって、母が時折、おはぎを作ってくれた。

 春のお彼岸のは「牡丹餅」秋は「萩の餅」というらしいが、母がよく作ってくれたのは春だったか、秋だったか。


 炊き上がったばかりのもち米を搗いて、まだ熱い半搗きのおもちにアンコをまぶしてくれるのを待ちかねていた。

 出来上がると早く食べたいのだけれど、一番はお皿に載せて神様にお供えし、それが済むのを待って食べる。

 明くる日になるとあんこが白くなっていたのは、日本中が貧しい時代でアズキに砂糖をあまり入れられなかったからだということは、ずいぶん後になって知ったことだが、うっすら甘いあのおはぎが懐かしい。

 あの味は古里の伯父たちの気持ちがこもった、我が家の味だった。

 小さいころ、父か母がすりこぎでもち米をこね、母か兄がお釜を押さえていた。やってみたくて仕方なかった。小学何年生ころだったか、やっとお釜を


押さえさせてもらったが、すりこぎの動きが意外に強くて、お釜がぐらぐら動いた。

 あの時のお釜から立ち上る熱い湯気と、もち米のおいしいにおいは忘れられない。途中で、すりこぎの先に付いた半搗きのもち米をつまませてもらった喜びも、色あせず心に残っている。

 最近「うちのおはぎは明くる日になると白くなって…」と話すと「うちのもそうだった」という人に初めて出会った。

 その人も私と同じ世代で、やはり家族が多かったという。それ以上は何も説明は要らなかった。

 このあたりでは○○という店のが一番おいしい、などと「おはぎ談義」に花が咲いたが、でもあの時分のおはぎのうれしさにかなう味はない。そんなことは言わないけれど、お互いの口調にそんな思いが漂っていた。



         ○

 「うちのおはぎはこんな味だった」と、かつて話したことがある。

 「うちは母が外に出て働いていたから、そんな思い出はない」と、ぽつりと答えが返ってきた。

 遠い思い出が人を悲しませることがあると知った。相手の気持ちを思うこともなく、思い出や自分の気持ちに酔っていると、そうと気付かないうちに人の心を傷つけてしまうのだ。

 なつかしく楽しい思い出が共有され、お互いの喜びとなっていくには、細やかな心遣いが大切なのであろう。私はそのことを知らなくて、思い出話で人の心をかき乱してしまった。

 あのとき以来、うっすら甘いおはぎの記憶に、ほ


ろ苦い味がついている。




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