今月の言葉 > 自然誌 文章から > 平成13年 2月号 

働きが無償になることはない
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 人間にとって「無償で得られるものは何一つない」というのは一つの考え方でもなければ、世渡りの常識という程度のものでもなく、実に人間生活における不動の真理である。

 そして、このことは、その半面において「人間の働きが無償になることは絶対にない」ということでもある。

 こんなことを言ったら、現代の若者だけでなく大抵の人が、そんなバカなことがあるかと言い、少くとも信じられぬと思うであろう。

 それほど、現代人は、ものごとの真実を見る目をくもらせているというか、あるいは近視眼的な考え方になっていてすべて目の前のことだけしか見ない


し、また考えようとしないようである。

 だから、いま目のまえに代価を払わないで何かが得られたら、それでうまくいったと思う人が多いだろと思うが、そういうわけにはいかない。

 なぜなら、人間生活においては、一つ一つの行動の結果は、その時その時で一々決着がついていくものとは決っていないのであって、結果はその人の生命が持続している中のどこかに、機縁によって現われてくるものだからである。

 今日行ったことの結果が、今日ただちに現われることもあるが、何日か、何年か先になることもある。

 若い頃におこなったことの結果が、年老いて後に現われることもある。この道理を知らないと、人生には突然の不幸があったり、偶然に幸運に恵まれたりすることがあるかのような錯覚に陥ってしまうこ


とになる。

 不幸になるのは単なる不運でも、いわれのない災難でもなく、そのようにならねばならぬ原因を、それまでの生活のどこかで、あるいは、あらゆる機会に自分でつくっていたからである。幸運の場合も、もちろん同じ道理である。

 そこで、もしも私たちが何かを無償で得た場合に、それを得るだけの値打のあることをしていたために、それに対する結果として恵まれたのであれば、当然のことが生じたのであるが、そうでなく、何の代償もなく、無償で頂く資格もなく、ただうまくやったというようなことであれば、それはその人の生活の中で、いつかその償いをしなければならぬことが起きてくる。

 そうなると、人々はそれを損をしたとか、失敗をしたなどと思って、自分が過去におこなったことに対して、当然支払うべき代償を払ったのであるとは


知らないでいるのだ。

 反対に、自分の尽した何かの働きに対して、それに相応する報酬が得られなかったり、何らの成果も得られなかったりすると、無駄働きをしたというように思うが、決してそうではない。

 それは結果がまだ現われていないだけであって、いつかは必ず現われてくる。一たんおこなったことは、善悪いずれにせよ、また事の大小にかかわらず、それはその人の生涯のどこかに必ず現われてくるというのが天地の理法ではなかろうか。

 世の中には無償で得られるものは何一つない。同時に人間の働きが無償に終ることも絶対にない。この道理が人間生活の道義の基盤であって、このことがわからないでは、人間の社会に道義が確立することは極めて困難なことである。




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